も大分真面目になっていたのでその教頭となった。そうして私も兄弟互の通信をする事になった。そこで何か好い校名を附けてくれといって来たのでその資金の来歴に依って、私は遺愛女学校と名を与えた。この学校は今でも彼の地に存在している。爾来卅年ばかり兼三は教頭を勤めていたが、かような教会学校では老後を保護してくれる見込もないので、遂に東京に帰って来て他に生計を求めたけれどやはり適当な事業もないので、旧友の押川方義氏や上代益男氏等の周旋に依って、更に布哇《ハワイ》へ移住し、児童に日本語を教える学校の教師となった。その妻は会津人で函館の師範学校を卒業しているから、夫婦共稼ぎで学校を受持っている。そうして三人あった娘の二人は布哇で、日本人の夫を持っている。が、最近米国の排日主義で、日本語の学校は非常に圧迫を受けているようだから、兼三も定めし困難している事であろう。これは随分先に走った話であるが、ついでながらいって置く。
 前へ立戻って、右の如く兼三は薬丸家より離縁させたが、私は弟に代って薬丸家の事は出来るだけ世話をするといってその頃居た祖母と、弟の妻であった女とは相変らず私の家屋続きへそのままに同居させ
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