い。その隣に瘡守《かさもり》稲荷があって、天井に墨絵の龍が描いてあった。それも気味が悪かった。この稲荷は維新の神仏を分ける際に、和蘭《オランダ》公使の前に移された。前には東照宮の南側の所に天神様もあった。
 東照宮の祭の日にはいつも参詣をした。今の表門はその頃台徳院廟の方へ向いており、外には塀があり、中は石が敷いてあった。この表門から中は履物をつけることを禁じてあったので皆|跣足《はだし》で這入った。増上寺の本堂は明治の初に焼けたが、総て朱塗で立派なものであった。本堂の後ろの黒本尊もやはり跣足で這入ったものである。あの前にはお舎利様があるというので拾う者もあった。
 増上寺に対して、上野の寛永寺が幕府の御菩提所であった。これは三月の花見の時の外は、道が遠いから行くことはなかった。この二つの寺へ将軍が参詣される、いわゆる『御成《おなり》』の日には、その沿道の屋敷々々は最も取締を厳重にし、或る時間内は全く火を焚く事さえなかった。沿道の大名屋敷では、外へ向った窓には皆銅の戸を下ろし、屋敷内の者は外出を禁ぜられ、皆屋敷内に謹慎していた。幕府から外出を禁じたのではないけれども、もし誰か不敬の行為
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