くないと申立てたので、世子の気性としては多少不本意でもあったろうが、遂にその言に従って辞表を差出された。が、幕府では容易に聞届られぬので、再応出願せられてヤッとのこと辞職を許された。それは慶応三年の十月で、この時は既に薩長へ向って討幕の内勅が下っていた時である。間もなく土州の山内容堂公は後藤、福岡等を以て慶喜将軍に大政奉還を勧めらるることになって、それには勤王佐幕両党の聯立内閣を作ることを条件とせられたのである。そこで慶喜公も内実困却されている際であったから、この建議を採用して、いよいよ大政奉還を出願せられた。すると薩長などは夙《はや》くに朝廷の或る人々と謀る所があっていたから直ちに慶喜公の出願を採用され、いわゆる王政復古の大改革となった。そして要路に立つ人々はこの勤王党で、佐幕党は越前の松平春嶽公位の一、二人に止まった。かつ会津侯の守護職とか桑名侯の所司代とかも免職になった。そこで幕府方は驚くと共に不平を起し、就中会桑の如きは火の如く憤って、薩長と戦端を開こうとするまでに至った。そこで新藩主は老中上席を辞退せられたとはいえ、前より職としていらるる溜間詰(今でいえばまず枢密顧問官)の立
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