るのを非常に恐れていたが、私はかえって希望していたものである。今でも私は俳句を作るよりもその議論をするのが好きであるが、既にこの頃より議論ほど面白くまた得意なものはなかったのである。
 この外になお文会と詩会とがあった。これは月に各一回、これにも先生達数人が臨席して各生徒の作った詩文を批評した。そこで私もいよいよ詩を作らねばならぬ事になった。前述の如く私の詩は理窟ぽい事のみで、花鳥風月を詠むことが出来ないのであるから、この詩会には少々降参したが、当時の寄宿生は詩などもたいして出来なかったので、私の詩もそれに比してはさほど劣ったものでなかった。文会の方は到底まだ論文とか紀行文とかいうほどのものを作る生徒がないので、まず紀事といって、ある仮名書の文章一段を漢文に翻釈させるばかりであった。これは私も読書力があったから、さほどむずかしいとも思わず、紀事の成績はいつも優等で先生から賞讃されていた。詩の方とてもその頃の先生達は今日の俳句でいえば多く月並で、当時流行の尊王攘夷とか慷慨悲憤などを述べれば、それでよいと思っていた。なおこの淵源に遡れば、当時の漢学の程朱主義は、詩文を卑み経義を尊ぶことに傾
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