は最初に抜擢せられた一人であった。後年この人が私に向って話したりまた書いたものを見ると、やはり私の父などが多少漢学の智識があったのでこれらの学者を登用した主唱者らしく思われる。藤野は後に藩の権大参事兼公議人となり、大学本校少博士ともなり、また修史館が出来た時にはその編輯官ともなった。号を海南といい、最初幕府の昌平塾の塾頭もして世間の人にも知られていた。文章が得意であったが実務に当る見識や才能も具えていたようである。
大阪へ着いたその晩、藩邸の人々の世話になって、夜船に乗り、翌朝伏見へ着いて或る宿屋に小憩した。前にもいった通り、松山を立って以来感冒に罹っていたが、明石を過ぐる頃から大分発熱して、この伏見に着いた時にはもう体も非常に衰弱していた。折から雨天でもあるし、とても歩行は出来ぬので、駕を雇うて京に入ることにした。この駕は、父の顔もあるから切棒にして人足も三人附けねばならぬので、駕賃も従って高くなる。それで供の僕が心配して異論を唱えるのを私はどうしても駕に乗ると命令した。かように病気をしている私と、僕とがそれらの話をしているのを、宿屋の主婦が聞いたので、頗る同情して私を慰めてくれた
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