ているといって、わが藩の者は自慢していた。それだけになかなか費用がかかって、八万両も支出したのであった。当時の八万両は、十五万石の松山藩に取っては巨額のもので、遂にその影響が、士族の禄も『五分渡り』あるいは『人数扶持』ということにもなった。それと同時に『出米』といって百姓にも租税以外の米を出させるし、また町人は『出銀』といって金を出させた。
なおこれも今日の若い人には知られぬ事であろうが、一体何万石などという大名は、その凡てを収入とするのではない。その土地に出来る総米高の称である。この総米高の十分の六を百姓が取って余の四分を藩主へ収める、即ち『四公六民』であって、幕府を初め凡ての租税法となっていた。そこで十五万石ならばその十分の四、六万石がその収入となるのであった。尤もその外に運上などといって種々の取り立てをする事があった。また藩内の城普請、道普請、川普請等の土木工事も百姓を使役する事になっていた。私の藩の松山などは、米のよく出来る所であったから、それらをいずれも米に引直して取り立てていた。そこで実際は米の総出来高の十分ノ六分以上、殆んど七分位までも年貢米として取ったものである。元来
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