私が附いているので、家庭の都合上やむなく、外の芸子で間に合わせたものと見える。私はこの時始めて芸子や舞子を見た。どうも祇園町というは面白い所だと思った。
京都住居は僅か八ヶ月であったが、私はこの間に祇園町を知り、四条の芝居を知り、小芝居や寄席もしばしば行き、義太夫は暗記するまでに至って、私が後日こういう方面に趣味を辿ることが出来たのは、この京都住居が栞《しおり》となったのである。
いよいよ京都を去るという前夜、ちょっとした別れの宴を内で開き、滋賀や千家等を招き、席の周旋には『山猫』という者が来た。山猫というのは、祇園町のでなく山の手の方の芸子を呼ぶ称である。誰かが『御留守居さんの出立に、山猫はちと吝い』といった。千家は頻りに祇園町行きを迫って『明朝間に合わせますからちょっと行きましょう』などといったが、父は応じなかった。
帰藩については、元来なら行列を立てて伏見まで下るべきであるが、節倹主義から、高瀬舟に家族も荷物ものせて下ることにした。あまり見苦しいから止せという人もあったが、父は平気で実行した。この頃高瀬川の上流は田へ水を引くために水が流れていなかったので、特別に金を出して堰
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