寒中裸でお参りをする者があった。これは病気が平癒したら裸参りをさせますという祈願を籠めて、それが叶ったので遣らせるのであった。また縁日などに乞食坊主は寒中裸で水を浴びて人に銭を貰った。これは人のために代って行をしているという意味でやっていたのである。今日もある寒詣りもその頃は裸であった。
 私の藩邸から近い縁日では、有馬邸の水天宮が盛んで、その頃江戸一番という群集であった。毎月五日であったが、子供や女連だけでは迚も水天宮の門の中へ這入ることはむずかしいので腕力のある家来を連れて行って、それの後から辛うじて這入った。履物が脱げても拾うことは出来なかった。興行物や露店なども盛んであった。以前は私の頃よりも一層盛んであったそうだが幕府の姫が有馬家に嫁せられて、御守殿《ごしゅでん》が出来てから、少し静にせよとのことで、それから多少この縁日も衰えたとの事である。
 その次に縁日の盛んなのは、十日の虎ノ門の金毘羅であった。これは京極の邸に在った。その邸の門を出入することも水天宮の如く甚だ困難であった。次には廿四日の愛宕の縁日で、よくこの日は私は肩車に乗って男坂を上ったものだ。
 常府の者の家族の外出は比較的自由であったが、勤番者は、田舎侍が都会の悪風に染まぬよう、また少い手当であるから無暗《むやみ》に使わせぬようとの意もあって、毎月四回より上は邸外へ出ることは許されなかった。その中二回は朝から暮六時まで、二回は昼八時から六時までであった。勤番者はこれを楽しみにした。彼らはその日になると目付役より鑑札を貰って出《い》で、帰るとそれを返付した。
 勤番中にも度々江戸に来た者や、或る事情で一年でなく二年以上勤続した者は、古参といって、新参の勤番者に対して権力を持ち、江戸の事情を教えて注意を加えもした。新参は江戸へ来ると間もなく古参に連れられて市中を見物した。その頃の赤|毛布《ゲット》である。これらの田舎侍は大芝居の見物と吉原の女郎買は一、二回しないと田舎への土産にならぬというので、必ずしたものである。夜は外出が出来ぬから吉原では昼遊をした。吉原の昼間のお客といえばまず田舎侍であった。芝居は刎《はね》が夜に入るから一幕は見残して帰らねばならなかった。古参になるとずるく構えて、大切まで見て帰った。しかし時刻が切れるので、高い駕籠を雇うか、さなくば猿若から屋敷までひた走りに走りつづけた。たまたま履物が脱げても顧みずして走ったのである。
 その頃侍は私用の外出の時は雪駄を穿いた。表向きの供のおりや礼服を着したおりは藁草履を穿いた。下駄は雨の時に限った。女はその頃も表附の駒下駄を穿いた。男女とも雨天には合羽というのを着た。今も歌舞伎芝居にはその形が残っている。そして大小の濡れるのを防ぐために柄袋《つかぶくろ》をかけた。
 門限は厳重ではあったが、一面には遅刻する者をかばうために、暮六《くれむつ》時の拍子木を打ってまわる仲間は、なるべくゆっくりと邸内をまわって、それから門番に報じて門をしめさせた。もう六ツの拍子木が聞えるのに、まだ某《なにがし》は帰らぬというと同僚の者は心配して、拍子木打ちの仲間に聊か銭をやって、一層ゆるゆると廻らせた。あるいは、拍子木がもう門へ行きつくという際に仲間を抱き留めて、同僚の駆込むのを待つというような事もやった。門限に全く遅れたとなると、国許へ追い帰され長い間謹慎を申附けられるのである。
 これは少し古い話しだが或る時新参の勤番者が、二人連れ立って向島へ出掛けた。あちこち歩いているうち、或る立派な庭園の前に来掛った。二人は中を見ても宜かろうと思って、這入って方々見まわって、とある座敷の前へ来たのでそこへ腰をかけた。すると一人の女が出て来たので、『酒が飲めるか』と聞いて見た。女は『かしこまりました』といって奥へ行き、やがて酒肴を出した。十分に飲食してさて勘定をというと、女は『御勘定には及びませぬ』といった。うまい所もあったものと思いながら、二人は帰って、得々としてこの事を古参に話した。古参は不審を起し、向島にそんな所は無いはずだがといったが、間もなくそれはその頃即ち十一代将軍の大御所様《おおごしょさま》の御愛妾の父なる人の別荘とわかった。この別荘の主人は娘の舌を通じて隠然賞罰の権を握っていた。それで諸大名から油断無くここへ賄賂を送り、常に音問していたのである。勤番者風情でそこへ踏込み、大胆にも飲食をも命じたというのであるから、藩の上下は顔色を失った。『どの藩の者ということを聞かれはしなかったか』と古参が聞くと、『なるほど代物はいただきませぬが御名札をいただきたいといったから、松平隠岐守家来何の某と書いて置いて来た。』との答に、いよいよ騒ぎ立ち、藩侯にもどのような禍がふりかかろうも知れぬと、それからいろいろ評議をして、結局、留守居役
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