即ち当時の外交官が、多額の金子を持参し、駕籠に乗り供揃いで向島へ赴き、そこの用人に会って、田舎侍がかくかくの粗忽《そこつ》を仕りましたる儀何とも恐入る次第で御座りまする、どうか御許し下さるようと、ひたすら詫びをして、金子を出した。用人は奥に入り、やがて出て来て、『主人こと今日は珍しい客来で興を催した次第で御座る。』といっただけであった。賄賂のきき目は実に鮮かであった。留守居役は勇んで立帰り、一同も始めて安堵した。かの二人は割腹の覚悟をしていたが、まずまず命拾いをした。この二人のうち一人は私の父ぐらいの年輩で、吉岡某という者であった。今一人の名は忘れた。
 勤番者はよく失策をしたもので、かの蕎麦屋で蒸籠《せいろ》へ汁をぶっかけること等は、少しも珍しい事ではなかった。勤番者は大概一つ小屋に一緒に居た。今の寄宿舎といった風になっていた。勤めも忙しくはないので皆無聊でいたが、さればとて酒を飲んで騒ぐことも出来ぬので、碁、将棋、または貸本を読んで暮した。貸本屋は高い荷を脊負って歩いたもので、屋敷でもその出入を許した。古戦記の外小説では八犬伝、水滸伝、それから御家騒動は版にすることは禁ぜられていたので写し本で貸した。種々な人情本や三馬《さんば》等の洒落本もあり、春画も持って来るので、彼らはいずれも貸本屋を歓迎した。私も子供の時に親類の勤番者の所へ行って、春画を見せられたことを覚えている。彼らのこんな呑気な生活も、異人と戦争をする準備をせねばならぬ時に至って、追々忙しくなった。彼らは邸外へも出て調練などすることになった。
 異人について騒ぎ出したのは嘉永六年から安政元年にかけての事で、私の七つから八つの年へかけてであった。八つの年には、今度こそきっと軍《いくさ》が起るという噂であった。後に知った所によれば、交易を許さねば軍艦から大砲を打込むというので、こちらも対抗せねばならぬといって幕府も諸侯も騒いだ、武器の用意の揃わぬ藩では、役に立つ立たぬを問わず急いで武器を買集めた。私の藩邸は比較的武器の準備がよく出来ていて、侍以上の者は以前から年々武器の検査をされることになっていた。しかし実戦という事になるとそれは不十分なものであった。
 私の藩は今の鈴ヶ森あたりから、大井村、不入斗《いりやまず》村へかけての固めを言付かり、私の父もその頃側役から目付に転じていて、軍監をも兼ねるという枢要な地位に居たので、その固めの場所へも勤務した。なんでも大砲が足らぬのに大変に皆が当惑したそうであるが、我が藩では田町の海岸にも下屋敷があるので、ここをも固めねばならぬけれども、大砲が無いので、戸越の下邸の松の立木をたおして、皮を剥ぎこれに墨を塗って大砲に見せかけ、土を堅めて銀紙を貼ったのを弾丸と見せかけ、これを大八車に積んで、夜中に田町の屋敷へ曳込んだということも聞《きい》ている。或る藩では寺の釣鐘を外して来て台場に飾ったそうだ。素晴らしく大きな口径の砲に見えたことだろう。
 異人即ち米国人と最初の談判は伊豆の下田でしたが、次のは浦賀ですることになった。その際、黒船が観音崎を這入る時には、黒雲を起してそれに隠れて、湾内に入ったという評判であった。蒸気の煙をそう見たのであろう。その時の提督はペルリとアダムスという二人であったが、談判の折、幕府の役人の画心のある者が、二人の顔を窃かに写生した。その画がひろく伝写されたのも見た。ペルリは章魚《たこ》のようで、口もとがペルリとしていると思った。アダムスは大変に大きな口を開いていた。これは欠《あく》びでもした所を写したのであろう。
 こんな物を見て珍しがりもしたが、軍がいつ始まるかわからぬという心配は皆抱いていた。軍が始まったら、三田邸は海岸に近い故、直ぐ立退きをせねばならぬ。まず君侯の母にあたる後室と、奥方と、姫君と、若殿の奥方と、それに属する大勢の奥女中が立退くと、その後から邸内の女子供が皆立退くということに定まり、立退の合図としては邸内を太鼓と鐘を打って回るという触れが出た。いつこの鐘太鼓が鳴るかとビクビクしていた。或る夜などは、今夜はきっと鳴るという噂で、夜中に飯を炊いた。弁当は飯に梅干と沢庵を添えて面桶に入れ、これを網袋に入れて腰に附けるのだ。私の弁当は祖母と一緒というのであった。まず行先きは君侯の親類の田安の下屋敷で、軍の模様でそれ以上どこまで行くかわからぬとの取沙汰であった。
 しかし戦端も開かれず、警戒も解かれ、黒船は一旦帰ることになり、もとの太平に立戻った。全く太平になった訳では無論なく、唯ちょっと猶予することになって、いよいよ和戦いずれにか決せねばならぬという国家の一大事になっていたのであるが、太平に馴れた江戸の士民は、全く太平になったと思い込んでいた。けれども幕府や藩々の枢要の人達は油断なく戦備を整えるので
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