い。その隣に瘡守《かさもり》稲荷があって、天井に墨絵の龍が描いてあった。それも気味が悪かった。この稲荷は維新の神仏を分ける際に、和蘭《オランダ》公使の前に移された。前には東照宮の南側の所に天神様もあった。
 東照宮の祭の日にはいつも参詣をした。今の表門はその頃台徳院廟の方へ向いており、外には塀があり、中は石が敷いてあった。この表門から中は履物をつけることを禁じてあったので皆|跣足《はだし》で這入った。増上寺の本堂は明治の初に焼けたが、総て朱塗で立派なものであった。本堂の後ろの黒本尊もやはり跣足で這入ったものである。あの前にはお舎利様があるというので拾う者もあった。
 増上寺に対して、上野の寛永寺が幕府の御菩提所であった。これは三月の花見の時の外は、道が遠いから行くことはなかった。この二つの寺へ将軍が参詣される、いわゆる『御成《おなり》』の日には、その沿道の屋敷々々は最も取締を厳重にし、或る時間内は全く火を焚く事さえなかった。沿道の大名屋敷では、外へ向った窓には皆銅の戸を下ろし、屋敷内の者は外出を禁ぜられ、皆屋敷内に謹慎していた。幕府から外出を禁じたのではないけれども、もし誰か不敬の行為でもすると、藩主の首尾にも関係するから、各藩主が禁じていたのである。
 藩邸内に住んでいる者の外出について話してみれば、まず私どもの如く家族を携えて住んでる者は毎日出ても差支《さしつかえ》無い。夜遅く帰っても許された。風呂は歴々の家の外は、自宅に無いので、邸外の風呂屋へ行った。邸内にも共用の風呂はあったが、これは勤番者が這入るので、女湯というものは無かった。だから内の家族などはいつも外の風呂へ行かねばならなかった。宮寺の縁日や花見などにも私どもは度々出かけたが、しかし朝六つ時より早く外出する事は出来なかった。
 その頃盛んな山王神田の祭などは、人が雑沓するから、もし事変に出合って藩の名が出るといかぬというので、特に外出を禁ぜられていた。そこでこの祭を見ようと思う時には、病人があるから医者へ行くと称して、門を出たものである。藩の医者は、邸外に住んでいる方が、町家の者を診ることも出来て収入が多いので、よく外に住んだ。この事は藩でも許していた。それで医者へ行くということを外出の口実にすることが出来た。だから祭の日などは俄《にわか》に邸内に病人が殖えた。芝居に行く時には朝が早いから皆病人になって行った。この事は黙許されていた。
 いつであったか琉球人が登城するというので、それを見物に行ったことがあった。その頃は支那人でなくても、琉球人でも皆『唐人』と呼んでいた。私は家族に連れられて、いずれも例の病人になって朝早くから、芝の露月町の知合いの薬屋へ行き、そこの二階で『唐人』の行列を待った。大変寒い日であったが、そこで蒸饅頭のホカホカ湯気の立つのを食べた旨さを今もよく覚えている。また錦画の帖を見せてもらった。それには役者の似顔絵が多かった。似顔絵というものをこの時始めて見た。この日何か事故があって、肝心の『唐人』の登城は中止になったので、大いに失望して帰った。
 花見は大概行くことになっていた。多くは上野と向島と御殿山である。上野の花見の時は、あそこでは食べ物が山内には無いので、皆必ず弁当を携えて行き、毛氈を敷いて、酒など飲むことであった。茶と酒の燗などは茶店に頼んだ。上野へ行くと、多くの女が鬼ごっこをしてる様を珍しく見た。何でも私が八歳頃のことであったが、屋敷から上野までの往復とも歩いて大変人に賞められた。私は祖母育ちゆえ、誠に意気地が無く、外へ出る時は必ず人におぶさって行ったが、或る時途中で、私より少し年上の女の子が負ぶさって行くのを見て、甚だ見苦しい姿だとつくづく思い、自分の負ぶさった形も、人から見たらあんなに見苦しいのだろうと思って、もう再び人の脊に依るまいと決心したので、それで上野の往復にも、人々が負んぶしようしようといったのを肯ぜず、我慢して歩き通して驚かしたのであった。今日でも私はまず年の割合によく歩き得る方である。
 浅草方面へ行くのは、まず梅屋敷の梅見、それから隅田川の花見であった。或る時は屋根舟で花見したことがあった。舟の中から堤を通る知人を見て、私の連れの人が徳利を示して『一杯やろう』といって戯れたことがあったのをおぼえている。一体私は舟を好かない方で、その日も遂には気分が悪いといって寝てしまった。
 人の通行に駕籠に乗るという事は、余儀無き急用の際か、あるいは吉原などへ行く時の外に無かった。遊里へ行く者はケチと思われまいとして乗りもしたが、駕籠賃は大変高かったので、普通の場合には大抵乗らなかった。駕籠舁《かごかき》は多く辻にいて客に勧めた。彼らは少し暖かくなると褌《ふんどし》一つの裸で居た。荷車曳きは寒暑とも通じて裸であった。宮寺には、
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