するものはなくて、唯自分で或る哲理的の宇宙観乃至人生観説を持して、余義なく満足しているのである。私の意見では、何事も事実に説明されたものでなくては信ずるに足らぬ、而して理学はまずその側のものであるけれども、これもまだ絶対的に宇宙の事物を研究せられてはいない。ただ幾分かそれが出来ているから、それを基礎として、知り居るだけの事を知って、その立場立場で比較的確かなというものに満足しているのである。そこで今日よりも明日、更に知る点が出来たなら、またそれに移って行く、要するに事実と共に私の智識は進んで行くのであって、その比較的確かなものを信じて、これに満足をする外はないのだ。この事を話せば際限もないから、ここらで止めて置くが、そんな考えがその頃から出来て、遂に今日に至っても変らないのである。
 十八年の末に森有礼《もりありのり》氏が文部大臣となって兼て抱いていた学事の改革を実行せらるる事になった。この人は凡ての法令の案文は自分で書く風なのであったが、それを修正して発表するには辻次官からの命でいつも私が筆を執った。私はこれ以前一等属より進んで准奏任御用係というのでいたが、この際更に文部権少書記官に昇進した。翌年は伊藤博文氏の総理大臣の下に官制その他の大改革をせらるる事になったので、更《あらた》めて文部省書記官となり、而して往復課長となったのだが、規則の制定や改正などというといつも私は特別にそれに関係した。
 森文部大臣の自分で法令案を書かるる事は前にもいったが、なお学事の方針や施設の心得等に関しては、絶えず各地方を巡回して当局者に親しく講演され、それを筆記したものを印刷して一般へ示さるる例で、この文章の潤色も多く私が担当していた。忘れもせぬ、廿一年紀元節の憲法発布式の日、私は大礼服がないので、――以前拝賀には借着した事もあれど――不参をしていたが、右の大臣の講演筆記の潤色用を急がるるので、特に文部省へ出勤し折からの大雪の寒冷を忍びて、筆を執っていると、俄に電話が掛り、大臣が負傷されたとあったから、急に車を馳せてその官宅へ行って見ると、意外も意外、森氏は西野文太郎という書生に刺され、西野はその場で大臣護衛の斎田某に切殺されて、廊下は血だらけになっている而して医師達は既に集ってもっぱら森氏への手当中であったが、氏は既に昏酔に陥って、時々大声を発して無念らしい唸きをせられていた。私と前後して他の人々も駈けつけて、官舎は忽ち大騒ぎとなった。而して森氏はその夜遂に亡くなられたがこの終焉の記録等も、辻次官の命で私が筆を執った。森氏は英国駐在の公使を久しく勤めて居られたにもかかわらず、普通教育は全く独乙《ドイツ》式で、挙国兵の基としてまず高等及尋常の師範学校に兵式体操を行わしめ、順次に小学校は勿論、中学校等にも兵式体操を行わしめ、なお一般の学校に人格気質の養成という点を厚く注意せしめられ、またこれまでは他省に属せし工科農科の大学や専門学校を、総て文部省の管理に移し、諸事統一的経済的に学政を敷かれつつあったのだが、一朝この凶変の起ったのは実に惜しい事であった。
 遡っていうが、私が東京へ転任した翌年に次男を挙げて、惟行と命《なづ》けた。十九年には三女を挙げてらくと命けた。
 私も既に月給は百円ずつ貰っていたので、その頃の物価ではこの金額でもやや寛ろぎが出来るはずだが、夫婦共に会計上に拙いので、他の同僚の如く人力車夫を抱える事も出来ず、雇い車の車夫にやっと看板の仕着せ位をして済ませ、文部省の弁当も判任官以来五銭弁当で甘んじていた。借家は最初の上六番町から下六番へ移り大分奮発して九円五十銭の家賃を払う事になった。こんな生活だけれども月給ではどうかすると不足を告げ、終に借金が出来るようになったので、一つそれらの整理をせねばならぬと思い付いて、廿一年に妻と相談の上彼に次女と次男とを連れさせて一時郷里の松山へ赴かせた。この少し以前、三女らくは実扶的利亜《ジフテリア》に罹って三歳で亡《なく》なっていた。そこで長女順は桜井女学校へ寄宿せしめ、私は長男健行を携えて神田の三崎町に下宿した。この際、従弟で浅井から養子に行った天岸一順というが学問のため出京していたのでこれもこの下宿へ同寓せしめることにした。知人などからは、年を取って官吏生活をしていながら下宿するのは可笑しいじゃないかといったけれども、私は平気でいた。この頃であった、独逸人のスピンネル氏が、基督教を日本へ弘めるために来てこの人は哲学にもなかなか達していたので、その門人で居た同郷人の三並良氏の通弁で度々宗教話を聞いたが、やはり私の意には満足しなかった。廿二年には暑中休暇を貰って松山の妻子を省みた。十三年に東京へ来てから十年ぶりであったので、故郷とはいえ、諸事珍らしくもあり、また人々にも歓迎された。それから翌廿三年
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