ないという事を知っていたから、最前地方官会議の随行中文部省に出頭した時もこの意見を述べるし、また九鬼文部大輔にも面会してこの事を話して置いた。けだしこれは他の地方からも私と同じ意見を申し出た者が多かったろうと思う。そんな結果からか、田中文部大輔が法制局へ転任して河野敏鎌氏が文部卿となり、九鬼氏がそれを輔佐せらるる事となった際、遂に強迫就学と学費も租税同様賦課せしめらるるに至った。これが十三年末の大改革で、改正の教育令といった。ちょうどそこへ私は文部省へ転勤したのであるから、主としてこの改革に関する施行規則等の調査に従事した。まだその頃は大学卒業の学士などは一人も官吏となる者はなくて、多くは古い漢学や変則洋学を修めた人達であるから、私の如き自己研究の聞噛り学問をした者であっても、いくばくか用に立つ、また理論を徹底せしめるという事は私の今でも得意とする所であるから、そんな事で位地の低いに関らず、意見は充分に立てる事が出来た。ただ江木千之《えぎかずゆき》氏が先進者でその頃二等属から一等属になっていたが、これが唯一の議論敵で、それだけ互に親しくもしていた。その後も江木氏が何か主任となって調査する時には、必ず私を係員にして意見を聞かれるので、私も用捨なくそれを述べて頗る知己としていた。それから局長は辻新次氏で、副局長は久保田譲氏であったが、これも私の事務を調査する上には他の人よりも長所のあるという事を認められていたらしく、久保田氏は能《よ》く人を叱り付ける風であったが、私だけは幸に優待を蒙っていた。そして私の性質としても引受けた事は、飽くまで努力して充分やらねば気の済まぬ風であったから、他の人よりは数倍の用向を引受けてそれぞれに調査を遂げていた。暑中休暇の如きも、他の人は休んでも私のみは一日も休まずに勉強した事もあった。
 この教育令の施行規則は文部省から随分と綿密に干渉して殆ど地方官には何らの活用もさせぬというような風であったので、地方の当局者は時々上京して不平を述べる者もあったが、それに対しての答弁は私が多く引受けて、聞き噛りの独逸《ドイツ》や、米国の或る州の学制などを引用して正面から喝破した。その頃私は独逸主義の国家教育制度を一も二もなく信仰していたのであった。
 私は幸に文部省の位置も段々と進むし、多少生活も豊かになったから、いつまでも久松邸の御厄介になっているのも恐縮だと考え、十七年の二月、上六番町へ家を借りて移転した。この頃は長女の順はもう小学校も終る頃になっていたので、近傍の桜井女学校へ入学させた。校長は、今は誰れにも知られている矢島|楫子《かじこ》刀自であったので、宗教上の教育も受ける事になり、また私の妻も時々説教を聞く事になって、終に母子共に洗礼を受ける事になった。私は元来は漢学をしたのであるが、まさか孔子や孟子の説を唯一に信ずる事も出来ずその後は西洋の翻訳書などを見て、多少智識を博めたので、いよいよ信仰というものはなくなって、むしろ無宗教という事を自分ながら得意としていた。が、一般の人間は何らかの宗教心のあるのがよいと思い、就中婦女子はそれが必要だと考えていたので、右の如く妻や娘が洗礼を受けたいといった時も、快く承諾して、むしろそれを奨励したのである。而してよく先方から招かるるので、私も時々は説教を聞きに行って、その度に説教者にぶつかって種々と議論もした。就中奥野某氏といって我国では最初の基督信者で、彼のバイブルの翻訳者である、彼の人などとも度々議論した。また英人のイーストレーキ氏などとも議論をした事がある。その頃島田三郎氏も多少基督教に傾いていたので、これとも出逢って話をした事であった。そんな事から私は、基督教を一通りは調べて見たいと思って、同志社出身では横井時雄氏、金森|通倫《つうりん》氏、小崎弘道《こざきひろみち》氏などにも話を聞いた、これは組合教会の方だが、また一致教会の植村正久氏へは就中しばしば行って議論を闘わした。また仏教の方でも島地黙雷《しまぢもくらい》氏に話を聞こうとしたが、これは余り私どもの如き者を寄せ付けぬ癖があるので、若手の方で平松理英氏北条祐賢氏などとしばしば出逢って話をした。その他村上|専精《せんじょう》氏吉谷覚寿氏黒田真洞氏にも面会した事がある。それから佐治実然氏はもっとも好い議論敵で、なお大内|青巒《せいらん》氏にも交際した。かように基督教も仏教も研究するだけはして見たのだが、それが根本的に私の意に適せず、或る疑点は誰れに質問しても明答を得ない。そこで、自分でバイブルも見るし、仏経も随分読んで見たが、やはり充分に満足が出来ない。そこで今度は、哲学の方面を、翻訳書ではあるが、古今に亘って調べて見たが、これもこの説ならというほどの満足が出来ない。因って私は今日も宗教は勿論、哲学上に一つも同意
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