て岩村県令に対しても、さほど遠ざかるというでもないが、他の同郷人の或る者ほどには親しくないようになった。それが新来の関県令には聞こえていたので、貴公はそのまま学務課長に居てもよいというような内諭があった。けれども、今までの同僚で、殊に同郷人は多く東京へ行くし、また椅子を並べる課長等は新顔も多くなるという事になっては、なんだか、そのまま落着いている気もしないので、終に東京へ転任したいという事を答えた。しかし他の同郷人は岩村氏の転任した内務省へ幸と採用されたのだから、官等はそのままで行く事が出来たが、私は学務課長で転任するなら文部省である。文部省は私に対して何らの縁故も無いから、来るなら今までの二等属を四等属に下げねばあき場がないという事であった。そこで私も少し困ったが、何しろ今までのままでは居たくないので、終に決心して四等属を甘んじて、いよいよ文部省へ転任する事になった。ちょうどこの年の七月であった、大書記官の赤川※[#「韻/心」、288−10]介氏、これは長州人で別に民権主義でもなかったが、長官が代るにそのまま居るのも、難儀だと思ったものか、転任させてもらうことになって、この転任先きは忘れたが、とにかく家族を連れて当地を発して東京へ赴かるるので、私も家族を連れてそれと同行した。この航海は神戸からは三菱会社の船の東京丸というに乗った。この一月に上京する時は、名古屋丸というに乗った。いずれも米国から買入れたので、名古屋丸は旧名ネヴァタ、東京丸はニューヨークといったのである。この途中神戸で楠公神社へ妻と共に参詣したが、福原には妓楼なども出来ていて、旧観を更めていたのに驚いた。それから東京へ着いては兼て願って置いたので、日本橋区浜町二丁目の旧藩主久松伯爵邸の御長屋へ住むことになった。
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十七
私はこの年の歳末に、久松家の麻布長坂の別邸へ、行くようにとの事であったから、そこへ移った。その頃は東京の物価も余り高くない時であったが何しろ五十円の収入が四十円に減って、しかも都会生活をしなければならぬというのだから、随分困難であった。私の家庭は前にもいった、長女長男の外になお次女せいというを挙げていたので、その頃は親子五人の暮らしであった。それからここへ来ると文部省へは一里と十丁ばかりの距離であるが電車もない時代とて、それを日々歩いて勤めた。衣服も多くは唐桟《とうざん》に嘉平次平の袴位を着るし、あるいは前にいった、地方官会議の随行の時新調した、モーニングコートを着ることもあった。靴は半靴を好んで穿いた。これは往来の遠いため早く損じて度々新調したものである。それから家族の衣食もそれに准じて粗末なもので辛棒させて、魚や肉などは余りに買わないで多くは浅蜊《あさり》や蛤《はまぐり》または鰯売り位を呼込んで副菜にし、あるいは門前の空地に生い茂っている藜《あかざ》の葉を茹でて浸し物にする事もあった。顧るに私の一生で生活の困難を感じたのは、この頃が最も甚だしかったように思う。しかしその年末に三等属に昇り、その翌年は二等属に、また翌年は一等属に昇るという風に、漸々と収入は増したのだけれども、都会生活だけにやはり苦しい事は苦しかった。
翌十四年に副局長の久保田少書記官が、神奈川、埼玉、群馬三県へ巡回する随行を命ぜられたので、それらの地方の学校その他の様子を見る事が出来た。この時神奈川の或る小学校で、教育上に関して久保田氏の代理として演説をする事になったが、或る拍子に詞が滞ると共に思想が散漫して後の語が継げず、頗る不体裁をしでかした。尤も私は藩の学校などでも講義をするのは人よりもうまかったから、人中で喋る事は多少の自信もあったのであるが、忘れもせぬ、学区取締となった最初に、小学校設置の必要を松山の有志者に説き聞かす時、少しいい詰って、出来そこなった事がある。それ以来、大勢の前での演説は少しおくれ気味になっていた所へ、この度文部省出張官の位置としての演説であったから遂に失敗したのである。これは後の事だが、それに懲々《こりごり》して、文部省勤務中は演説事は断って全くせなかった。その後子規に導かれて俳人生活をする事になって卅年頃に神田の或る学校で講演会を開いた時に思ったよりも巧く喋舌った。次に徒歩主義会の講演を神田橋外の和強学堂で開いた時も出来栄えがよかった。そんな事で私は元気を回復して、今では演説や談話は好んでもする事になって、聴衆が多ければ多いほど弁舌もいくらか伸びるという風になった。
一体学制の頒布は第一に小学教育の普及を主眼としていたのであるが、まだ強迫就学という事までは進んでいなかった。しかるに私が県地にいて小学教育を督励していた経験では、是非とも強迫就学となし、その教育費も他の租税の如く、賦課するのでなければ結局の目的は達せられ
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