県へ視察に行く事になった。この頃はまだ諸県でも稀れにある、女子師範学校を見たのを珍らしく思った。
こんな事をして、県令の随行とはいえ自由行動も出来るのであるから、例の好きな芝居も見た。そうしていると俄に国元から電報があって、継母が大病で危篤に瀕しているという事であった。そこで県令に願って俄に帰県する事にして、この時前にもいった弟の兼三が在京していたから同行せしめたのである。この頃は三菱会社の汽船が沿海の航路を大分占領していて、それは西南の戦争の際、政府が運送の必要上、岩崎弥太郎氏へ巨額の資金を給与して、これまで日本の沿海は米国の汽船がおもに往来していたのを買収して、それに充てた。爾来年々補助金を給与したので、日本沿海だけはヤッと三菱会社の汽船で荷物や旅客を乗せる事になった。けれどもその頃、英国の或る汽船会社が、三菱会社と競争して、これも日本沿海を往来していたので、政府は三菱会社を後援するため、同会社の汽船に乗るには、何の手数もかからぬが、この英国の汽船に乗る時は予め或る筋の許可を得ねばならぬという面倒をさせた。しかるに私が帰県する際ちょうど三菱船がなかったので、やむなく手数をして英国船の方へ乗った。尤も千|噸《トン》以下で船脚も遅かったが、おまけに風波が起って動揺が甚だしくなった。私は少年の時には和船に乗ってもまださほど酔わなかったのだが、その後は回一回と船に弱くなって、汽船に乗って平穏な時さえも食事などが充分に出来なかった。そこへこの風波だからいよいよ閉口して、臥床に横わって頻りに吐いて、終には胃にあるものは吐き尽して、小量の血を吐くまでになった。私は右の如く船嫌いとはいえ、さほど動揺に逢った事もなかったのだが、今度始めて厳しい動揺に逢って非常に苦痛をした。そこでこの船は四日市へ着く規則なのだが、その沖までは達したけれども、右に廻ると暴風を横に受けるから、それが出来ない。因て無駄に沖中に四、五時間ばかり漂った末、やっと四日市の港に入った。私は元来神戸まで往って、それから別の内海通いの汽船便を取るつもりであったが、モウ船には懲り懲りしたので、四日市へ上陸してそれから陸路を神戸まで行った。その後の航海はまず平穏で、いよいよ松山へ達して帰宅して見ると、継母は既に人事不省に陥っていて、帰県した事を告げたが殆ど知れなかった。そうしてその夜死去したので、それから葬式万端の事を営んだのである。
そこで前に立戻って、岩村県令は一度地方官会議からは帰県されたが、在京中にモウ内々の話しも済んでいたのであったろう、政府から、内務省の戸籍局長に転任を命ぜられた。我が県の主立った市民は民権主義であったから、人望も同氏に帰していたので、この転任は非常に失望したけれども仕方がない。それで三津浜出船の時などは、旧藩主が江戸へ出発する時、御曳船といって数多の小舟が印の旗を立てて御船唄というを歌いながら、沖まで漕ぎ連れて藩主の船を送ったものだが、その例を再び用いて、盛んに県令の出発を送ったので、岩村氏も頗る満足せられた。
今回県令の更迭は今もいう如く岩村氏が民権主義に傾くという事からであるから、新来の県令は漢学者で保守主義である。関新平氏というが拝命された。この人は佐賀人でこれまでは茨城県令をしていて、水戸人とは気風が会っていたから、この度の転任と共に茨城県人を数人連れて来て、課長や重なる県官の椅子は段々とそれらに与えた。そうして今まで岩村氏に親しかった者は氏の周旋で内務省へ転任した。それは衛生課長であった伊佐庭如矢氏、勧業課長であった藤野漸氏、その他伊藤鼎氏、辰川為次郎氏、これは皆松山人で、また他から来ていて庶務課長であった南挺三氏もその一行であった。それから租税課長の竹場好明氏、会計課長の篠崎承弼氏は宇和島人であったが、これは留任した。一体岩村県令の民権主義を最も賛成して、その他常に出入りをして県令と親しかった者は我松山人なので、その訳から皆転任せしめられたのである。そこで私だが、前にもいった如く、最初、その頃では異数の抜擢に逢って、学務課で働く事が出来、肝付兼弘氏が他へ転任してからは、学務課長を命ぜられていたのであるが、私の性として新らしい事新らしい事と知識を拡めて行く、そこで明治の始めこそ、福沢風におだてられ、また民約論や三権分立論などを読んで、自由とか民権とかを神の御託宣のように思っていたのであるが、その後ブルンチュリーの国法汎論なども読み、また文部省雑誌といって西洋の新らしい論説を載せたものを読んで、段々と独逸《ドイツ》の国家主義を知る事になったから、余りに突飛な民権主義は同意せられないようになって来た。そんな事で、草間時福氏が変則中学校に拠って福沢風の民権主義を唱うるに至っても、私は学務の当局者でありながら、それほど熱心に賛成せない。そうし
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