には妻子を松山から東京へ迎えたが、この時は私自身讃岐の丸亀まで行って、そこへ妻子を呼び寄せ、松山までは行かなかった。行くと数日の逗留ではとても知人に接する暇もなく、むしろその厚意に負《そむ》くからである。この丸亀は折から妻の妹の夫、また私にも父方の従弟に当る菱田中行が基督教の宣伝のため来ていたので、そこへ止宿した。なお長女順も昨年同郷の山路一遊に嫁して、一遊は香川県の師範学校長を勤めていたので、順女もこの丸亀まで来て面会した。それから東京へ着いては、前年から旧藩主久松伯爵家より嘱託せられていた常盤会寄宿舎監督のその役宅へ一同住う事になった。この寄宿舎は本郷真砂町にあったのだが、間もなく私は弓町一丁目に借宅してそこへ一家を構えた。ついでにこの常盤会寄宿舎の事を少々話せば、従来郷里松山から学問の修業として出て来る書生は随分多いが、普通の下宿に居ては費用も嵩《かさ》み、どうかすると遊び癖も付くという事を、旧藩主久松伯爵家にも憂えられて、廿年の末に右の寄宿舎を設け、彼らの書生を収容さるる事になった。なおその以前に、郷里から出ている俊秀にして資力に乏しい生徒には、学費を給与さるるという事にもなっていたので、この給費生もやはり寄宿せしめらるる事になった最初の給費生中で後年成立た重《お》もな人では、佃一予氏勝田主計氏正岡子規氏などである。この監督は最初同郷人の服部嘉陳氏であって、私も給費生の始まった頃からその生話掛の一人で、やはり寄宿舎にも関係する事になっていた。その後服部氏は、病気のため帰郷する事になったので、そこで私がその後任となったのである。
また廿二年の頃久松家の御事向につき事件が起り、私はこれに対して意見を陳述する機会を得たので、その以前より出来ていた、御家憲の実施を促がし、その結果として諮問員を東京と松山とに置かれ毎年の経費や重要の事件はこの諮問員に諮問されて後ち施行さるる事になった。而て私もその一員に加わる事になって、これは今日に至るまで継続して勤めている。
そこで文部省の方では廿三年に参事官に任しなお普通学務局の方も兼任していたが、その以前から私は精神衰弱とでもいうものか、事務の調査をする際は能く不眠病に罹る事が始まって、それでも勤めるだけは勤めねば気の済まぬのだから随分と苦しむ事になった。しかのみならず、その頃は大学卒業者も文部へ入って来てなかなか頭の好い者も出来た、即ち先進者では高橋健三氏、それから岡倉覚三氏木場貞長氏沢柳政太郎氏渡辺董之助氏などである。こんな事で私は最《も》う独り舞台で働くという訳でもなく、また唯一の知己たる、江木千之氏は内務省へ転任してしまったので、何だか寂寞をも感じ、いっその事辞職して閑散の身分になり、精神の保養かたがた寄宿舎の監督位を勤めようという気になった。而してもう恩給年限に達していたから、その給与を受くれば、その頃は物価も安く、監督役宅に住えば家賃もいらぬという訳なので、遂に決心して辞職をした。辻次官は頗る留められたし、大臣は芳川顕正《よしかわあきまさ》氏であったが、これも多少厚意を寄せられたのであるけれども、私は役人生活が嫌となるともう一日も勤める気がなくなって、遂に止める事になった。これは廿四年四月である。
それ以来私は寄宿舎の監督のみを職務としていたが、そう日々の用向きはないので、それからは運動のため日々当てもなく東京市中及び近郊を散歩する事を始めた。而して東京市の彩色の無い絵図面を持っていたのを、散歩の度に通った道路に朱を引きそのため用もない道や、わざわざ廻り道などもして、段々と図面が赤くなるのを楽しみにしていた。また近在の宮や寺や名所などもあまねく廻ったから、今日でも、これらに知らぬ所はない。しかのみならず、寄宿生には時々遠足会という事を催すので、それも私が率先して熟知の名所古蹟等へ伴う事にした。私は身体の人よりも弱いにかかわらず、足だけは幸に達者なので、この書生を率いた時などは、別して痩せ我慢の健足に誇って見せた事である。
寄宿舎に居る生徒は各々自分の目的に従って学校へ通っていたので、法律や政治や経済やまた文学などと各方面の生徒も居たのだが、正岡子規氏とか、河東碧梧桐《かわひがしへきごとう》氏の実兄竹村黄塔氏とかは文学専門であって、なお漢学も修めていたから、私は時々この二人と共に漢詩を作り合う事もあった。また同行して郊外へ散歩する事もあって、この際は漢詩の外、七五体の新体詩見たようなものを、互に附け合うような事もして、暢気な遊びをした、これは言志集といって、今も数冊残っている。尤も子規氏はその少し以前から俳句を作り始めていたので、黄塔氏や私もその真似をする事になって、今で見れば変なものだが、連句みたようなものを作った事もある。が、私はまだ本気に俳句を作ろうという気もなかっ
前へ
次へ
全100ページ中81ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング