の一行を案内して県下の小学校を彼方此方と見せたが、野村氏のいわるるに、この県には未だ県立師範学校がない、他の県の多くは師範学校が出来ているから是非それを設けよとの事であった。私はそれに対してそんな師範学校を設くるよりも各地へ伝習所を置いた方が実際教授の普及には裨益があると抗弁した。けれども他の県に師範学校があって見れば、我が県にそれがないのも口惜しいと思って、その事を岩村県令に建議して、それなら相当の学校長を雇って来いという事で俄に出京を命ぜられた。因て直ちに出京したが、野村視学官はまだ帰京していなかった。そこで文部省へ出頭して、良い東京師範学校卒業者を求めた結果、松本英忠氏というを雇入るる事になった。そうして創設したのが現今も存在している松山の師範学校である。この創設と共に各所の伝習所は廃止して、その主任で居た教授法の諸教師は改めて派駐訓導と名けて、相変らず伝習はさせた。それから、中学校もなければならぬというので、これには慶応義塾から草間時福氏というを招聘して主として英書を教えさせ、別に漢書の教場をも設けた、この教師は松山在来の漢学者を用いて、太田厚氏が首坐であった。けれども未だ学制の中学科の制には一致する事が出来ないので、これを変則中学と名けた。この変則中学校には草間氏の周旋で更に西川通徹氏とかなお一、二人の英書の助教を雇ったのである。
そんな事で愛媛県も初等教育と中等の教育とは、どうかこうか施す事が出来たので、私は彼方ら此方らと巡回して、主としては小学校を視察した。小学校ではいつも臨時試験を行って、私はかつて師範科の伝習を朧気ながら受けていたから、自ら教鞭を執り、ボールドに向って、白墨を使い、生徒の試験をしたのは、今から思えば可笑しい。
この年妻が長男を生んで、健行と命名した。
[#改ページ]
十六
ちょっと前へ戻るが右の師範学校長を雇うために上京した時、暫く滞留したので例の芝居見物をしたのだが、折節守田|勘弥《かんや》が猿若の小屋を新富町に移して改良劇場を作って、作者は河竹黙阿弥を雇いいわゆる活歴物を多く出していた。私の見たのは仙台萩の実録とかいうので、先代彦三郎の原田|甲斐《かい》、仙台綱宗、神並父五平次、先代|芝翫《しかん》の松前鉄之助と仲間嘉兵衛、助高屋高助の浅岡、板倉内膳正、塩沢丹三郎、先代菊五郎の片倉小十郎、神並三左衛門、茶道珍斎、先代左団次の伊達安芸、荒木和助、大谷門蔵(後に馬十)の酒井雅楽頭、大阪から来た嵐三右衛門の愛妾高尾であった。私はこんな新作物は始めてであるし役者も揃っていたので面白く見物した。この度の旅行は末弟の克家を随行せしめていたので、これにも見せて喜ばした。そんな事で平気で滞京しているうちに、今一人の弟の薬丸兼三が九州辺に居て或る悪竦[#「悪竦」はママ]な会社の手先に使われて監獄に入ったという事を聞いたので、まず克家を帰県させ、それから私も校長の雇入れが極ったので、実は公務もそこそこに心配して帰県した。これは後の事だが、右の兼三の事件は幸に刑法にも触れずに放免されたが、私はこの事を非常に怒って、養家に対しても済まぬといって終に先方に談合して離縁してもらった。そうしてこの際兼三には遥の祖先が一時称した宇野姓を名乗らせた。またこの際から私は彼と義絶して暫く書信もせなかった。がその後彼は函館へ行って税関の雇員になっていたが、折節米国の金満家の娘が病死して、その嫁入の手当てとして別に積んでいた金を、宗教の宣伝費に充てたいという希望から、函館にその頃までなかった女学校を設ける費用に寄附した。そうしてモウ弟も大分真面目になっていたのでその教頭となった。そうして私も兄弟互の通信をする事になった。そこで何か好い校名を附けてくれといって来たのでその資金の来歴に依って、私は遺愛女学校と名を与えた。この学校は今でも彼の地に存在している。爾来卅年ばかり兼三は教頭を勤めていたが、かような教会学校では老後を保護してくれる見込もないので、遂に東京に帰って来て他に生計を求めたけれどやはり適当な事業もないので、旧友の押川方義氏や上代益男氏等の周旋に依って、更に布哇《ハワイ》へ移住し、児童に日本語を教える学校の教師となった。その妻は会津人で函館の師範学校を卒業しているから、夫婦共稼ぎで学校を受持っている。そうして三人あった娘の二人は布哇で、日本人の夫を持っている。が、最近米国の排日主義で、日本語の学校は非常に圧迫を受けているようだから、兼三も定めし困難している事であろう。これは随分先に走った話であるが、ついでながらいって置く。
前へ立戻って、右の如く兼三は薬丸家より離縁させたが、私は弟に代って薬丸家の事は出来るだけ世話をするといってその頃居た祖母と、弟の妻であった女とは相変らず私の家屋続きへそのままに同居させ
前へ
次へ
全100ページ中74ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング