れと父が家禄平均の際に別の下賜金を貰ったのを合わせて、久米郡の梅本村へ少しばかりの土地を買って家屋を建築した。けれどもそれに移住は出来ないで、父は久松家の用向きで東京へ行く事になった。また私はその頃のハイカラだから田舎住居などはする気がない。因てそれは久く空屋にしてあった。しかるに石鐵県となってかようの輩にいよいよ郷居をせぬなら、かつて、藩から与えた五十円を返却せよとの達があった。そこで私は直ちに梅本の土地家屋を百円ばかりで捨て売りにしてその一半五十円を県庁に納めた。そうして残りの五十円がちょうどこの度の費用を支弁したのである。さて学区取締の給料はというと愛媛県となった界から規則が改まって六円に減額されていた。が、間も無く八円となり十円となった。これと平均額の家禄とで辛うじて一家の生計は営んでいたのである。
ついでにいうがこの平均家禄は、前にもいった如く一戸に二十俵と一人に一人半扶持の定めであったが、石鐵県となった際、毎戸区々では大蔵省の計算上都合が悪いというので、旧新両士族に属する者の総給与高を平均して旧士族は二十石七斗となったのを毎戸へ同一に下付さるることになった。それから明治八年家禄の奉還を願い出る者には一時の下付金があるという事になったので私は二十石七斗の半額を奉還してその下付金を受けた。更に十一年に一般の士族に家禄返上を命ぜられたので私もその残りの半額に当る下付金を公債証書として貰った。この二回の下付金が何でも七百円位あったかと思うが、下にいう家屋の新築費や、その後東京へ移住して生計の欠乏を補う必要から、時々支消して、明治廿年頃には全く無くなっていた。
さて住宅については、明治七年頃であった、久しく住んでいた堀内の邸を僅かばかりに売却し、その金を以て継母かつ妻の里なる二番町の春日の長屋を借り修繕を加えて、かつて同居させていた弟薬丸大之丞の家族をも引連れて移転した。その後右の家禄返上に依って下付金を得たので、更に春日邸の一部を譲ってもらい、そこへ二階付の小家屋を新築した。この家屋は十三年に一家東京へ移住して後は人に貸して居ったが、卅六年段々借財が出来たからその償却のために遂に売却してしまった。けれども、現今でも私は愛媛県松山市大字二番町百十四番戸々主という空名だけは持っている。
文部省では米国人のスカットというを雇って普通教育の伝習として、御茶の水の旧大学本校跡を東京師範学校と名けて師範学科を多くの学生に教えさせ、次に大阪へも大阪師範学校というのを設けて、東京師範学校の卒業生などを以て同様に師範科を教授せしめた。この学校を出た土州人の安岡珍麿というを明治七年に愛媛県へ招聘された。これが我県で文部省の規定に合った小学教育を施すの端緒である。そうしてそれを拡めるため、伝習所というを、松山に置かれて、私は学区取締からその主幹を兼務して、この伝習の事にも当った。そこで松山人は勿論県内の大洲、宇和島、今治、小松、西条等の小学教育に従事する重《お》もなる者を呼び集めて伝習を受けさせた。けれども余りに子供らしい事を習わせられるのだから、一般の者が本気で習わない。そこで私はわざとその仲間へ入って他と同様に伝習を受けた。彼の文部省で出来た、掛図の、いと、いぬ、いかり、ゐど、ゐのこ、ゐもり、などというのを、安岡氏が教鞭で指定するに連れて高声を出して読んだ事を今も覚えている。
これは翌年八年へかけての事であるが、この八年は熊本県で江藤党が騒動を起して、同県の県令たる岩村高俊氏は辛うじて身を免れた位であったが、それが鎮定すると共に、愛媛県の県令に転任された。この人は土州人で、夙《つと》に平民主義を持っていたから、普通教育には最も意を注いで、従って私どもの学区取締にも、度々直接して諮問せらるる事もあった。そこで私はいつもハイカラであるから、何らも憚らず、聞き噛りの自由主義などを喋舌《しゃべ》った。それが、あたかも岩村氏の意に投じたので俄に抜擢されて十一等出仕の学務課勤務を命ぜられた。そこで私も今までは松山附近の学事の管理者であったのが、伊予国全体の学事に関係する事となったので、多少得意となった。そうして岩村県令の下にいよいよ小学教育の普及を謀らねばならぬと思って、その頃は東京大阪の外に、仙台と長崎と広島とにも師範学校を設けられ、段々と卒業者を出していたから近接せる広島師範の卒業者を五人我県へ招聘した。そうして県内を六区域に分って、松山伝習所の外に、宇摩郡の川之江、新居郡の西条、越智郡の今治、喜多郡の大洲、宇和郡の宇和島へも伝習所を置いた。尤もいずれも速成であるが、まずまず文部省の規定の教授法等は一般へ習わせる事が出来たのである。
しかるに間もなく文部省の視学官が視察に来る事になった。それは野村素介氏並に随行員二人であった。そこで私はそ
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