る。それから小学校を設けるといっても別に家屋はないから、多くは寺の本堂とか神社の拝殿とかあるいは旧庄屋屋敷などを借り受けたものである。
既に今いった如き困難がある上に、更に一ツの困難に出逢ったのは旧穢多を就学せしめるという事である。維新の最初に穢多も一般の人民と同様に見做さるるという事は政府の御沙汰に出ている事であるが、久しき間の習慣は彼らを全く人間以下の畜生同様と見ていた。しかるに学制の上ではこの旧穢多もまた普通の人民であるから是非とも就学させねばならない、旧穢多を就学させるという事になれば、さなきだに、児童を学校へ出す事を厭がる父兄は、穢多と一緒に習わせるのは御免蒙るといって、いよいよ命に従わぬ、そして、穢多の方では、もう朝廷から平等に見られているのだから、児童を小学校へ入れたいという、つまり私どもは、この中間に板挟みとなったのだから堪まらぬ。そこで、一方に対っては、旧穢多の歴史上同じ人間であるという事、また朝廷の厚い思召であるという事を説き聞かせるし、また一方に対っては、今日の場合勿論同じ様に取扱うのであるが、久しき習慣はちょっと変ぜられぬから、多少の辛棒をして我々の指図に従ってもらいたいと、懇々と言い聞かせ、まず同じ小学校でも、旧穢多の子弟は、本堂や拝殿の縁側に薄べりを敷いて、そこで学ばせた。それからこの着手の初に、松山の士族学校へは第一にこの旧穢多の子弟を入れて、それを郡部一般の説諭の種にもしたいと思い、私どもは松山附近で味酒《みさけ》村というがある、そこの口利きの或る旧穢多の家へ行った。そうしてどうか士族の出る小学校へ御前方の子弟を出してもらいたいといって勧めた。最初ちょっと遅疑したが、遂に承諾して十幾人かの児童をその通り通学せしむる事になった。この旧穢多の家で私はわざと旧習を破って見せるために、茶を貰いたいといったら、立派な朱塗りの蓋《ふた》つきの茶台で私その他にも茶を出した。私は直に啜り尽したが、他の者は互に顔を見合わして啜り得なかった。既に説諭に向った役人でさえ、旧穢多の茶が飲めぬのだから、一般の人民が旧穢多を嫌うのに不思議はない。
この年末であったが、石鐵県の県庁は松山から十一里ばかりある今治の方へ移った。この一大原因としては、県官で九等出仕某という者が、或る夜宿所で誰れとも知れず暗殺された。それ以来県官は松山の士民を頗る疑惑する事になり、今治の方に親しみと便利を感じて遂に移庁するに至ったものらしい。そうしてこの暗殺の嫌疑者として、同郷人の服部嘉陳氏、錦織義弘氏が主として東京へ拘引され、なお従弟の小林信近や親友の由井清氏藤野漸氏相田義和氏なども連類として拘引された。しかし事実がないのでその後いずれも放免される事になった。
この頃の石鐵県には県令はなくて、参事に土州人の本山茂任氏が居た。権参事は大洲人の児玉某氏が命ぜられたけれども赴任せずに終った。間もなく、政府は小さい県を合併せらるる事となって、我が伊予の国も、石鐵県と神山県と二ツに分かれていたのを合して愛媛県とせられた。そこで宇和島吉田大洲新谷松山今治小松西条の旧八藩と宇摩《うま》郡の旧幕領とが一ツ管轄に帰したのであるが、相変らず県令は置かれないで、参事として長州人江木康直氏が赴任した。権参事には、大久保某というが命ぜられた。而して県庁も再び松山に移った。私はこの変革があっても学区取締をそのまま勤めて、相変らず面倒な小学校の設置や児童の就学を勧誘していた。
右は明治六年の事だが、この九月に東京に居る父が大病に罹って危篤だという知らせがあった。そこで私は驚いて、県庁に願って東京へ赴くこととした。或る汽船便で神戸まで達して西村旅館に着いて見ると、昨日この置手紙をして愛媛県の方へ下られた人があるという。見ると弟の大之丞の筆で、父はもう廿二日に死去してその遺髪を持って帰郷する、定めてこの宿に立寄るであろうから知らすというのであった。私はこの手紙を得て落胆するし、号泣もしたが、この上は東京へ行く必要もないので、そのまま汽船便で帰郷した。帰ると一家は皆悲嘆に暮れている。父の病は脚気衝心であった。父は江戸以来この症に罹る癖がある、その上老年にも及んだので終に回復を遂げなかったのであるらしい。行年五十歳。しかし平素の主義として、君家のためにわざわざ東京へ上ってこの病のために斃れたという事は死しても満足した事であったろう。それから松山の代々菩提所としている、正宗寺へ遺髪を葬った。これらの費用や私の上京の途中の費用等に費した金がほぼ五十円位であったが、父は現今の私と同様に蓄財などという事はちっとも出来なかった。それでかつて藩政の末に士族に郷居を奨励するためそれを願うものには藩庁から五十円を給与するという事になっていて、私の内でも、早晩郷居する事に極めて五十円貰った。そ
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