貧富に心を動かさぬ性質だから、自分は頗る平気で居た。その頃旧藩の学校の教員仲間が互いに団結して、経費は月謝を当てにして、旧校舎をそのまま借りて、漢学や洋学数学を教える場所を設けていたので、私もそこの漢学教員の仲間へ加えてもらった。なんでも給料は一ヶ月旧藩札百匁(今の五十銭位)であったろう。旧藩の頃雇い入れた英学の教師稲垣銀治氏もまだそのまま居たので、私は右の漢学の教員を勤める傍、わざわざ東京まで行って果たさなかった英学を幾分でも修めたいと思い、この稲垣氏に就いて、それを習う事にした。そこで、ピネオの小文典とかマンデヴィールのリーダーとか、理学初歩とかを幾分か習って、なお聞きながらに翻訳もして見た。が稲垣氏は間もなく松山を去って東京へ行ったので、私もそれ限り英書を習う機会を失ってしまった。
 この頃は旧藩知事の久松家は東京に住居せられていたが、何分旧大名風の生活が改められないので、経済の点にもよろしくないから、この改革をなすには是非とも私の父を上京させたいという事になった。父は度々いう如くもう世務に関する気はなかったのだけれども、久しく仕えた君家のためとあっては、辞退する心にならず、終に御受けをする事になったが、家令などという職名はいやだといって、御用掛位な位地で上京する事になった。そして幸だからというので、父の使用かたがた英学の修業をさせるために、弟の大之丞を召し連れた。この頃久松家には芝の三田邸を売却されて、日本橋浜町の旧水野邸を買って住居されていたので、父もそこへ寓居した。ついでにいうが、当時はまだ衛生などという事は知らず、ただ交通の便利々々という事のみを誰れもいうので、久松家にもそれに感染せられたのであるが、三田邸は二万数千坪もあって、高台であるし、現今では松方侯爵その他が分割して東京でもよい邸地といわれているのだが、それを僅に三千何百円とかで人手に渡してしまわれたのは実に惜しい。これに反して、浜町は土地が低くて湿気も多いし、水も悪いし、大火ある度に風下となって延焼する虞れもあるというので、その後またまたそこを売却されて、現今の芝公園の紅葉館の隣地へ転任せらるる事になった。この地は鍋島家の末家邸であったかと記憶する。
 この年の十月太政官からの学制頒布があった。それで大学中学小学などという学校の制も定まり、就中小学校は各地にあまねく設置して、一般の児童は事故なき者の外就学せねばならぬ事になった。尤もこの頃は府県に大区小区を置かれて石鐵県は一大区から十五大区まであって、各大区の下に従来の町村を幾つずつか合した小区があった。そうして学制においてもっぱら小学校設置等の事に当る学区取締というのを、他の府県もほぼ同様だろうが、石鐵県は大区ごとに一人を置いた。そこで私は旧藩で学政専任の権少参事でいた関係から、その学区取締を命ぜられて、県庁所在地の松山、即ち第十五大区の学区取締となった。その位置はまず大区長と相対するものなのだ。それであって給料はたった八円、しかし私の家計にはこれでも大分の資《たす》けになった。間もなく大区を合して区域を広められた際、私は松山以外の郡部の学事をも担当することになったが、これまでに例のない小学校というものを創設するのだから、なかなか困難であった。尤も松山は、士族仲間に従来子弟を学問させた習慣もあるので別にやかましい事もなかったが、それも町家となり、更に郡部の農家となると、僅に習字を教える寺小屋位の外学問をさせるという例がないので、全く余計の干渉をして農商業の妨げをすると思い、随分不平を述べた。それを大区や小区の役員と共に私は説諭を加えて、是非とも学制の如く小学校を創設し児童を就学せしめねばならぬのだから、骨が折れる訳なのだ。今日でこそ小学校を設けるといえば、どうかわが町村へ設けてもらいたいといい、子弟の入学が出来なければ苦情をいうという有様だが、その頃は学区取締の方から、どうか小学校をそこに置かせてくれ、児童を暫く貸して教えをさせてくれと、手を合わさんばかりに頼むのだから可笑しい。そこで月謝などを取るという事は思いもよらぬ、幸にその頃文部省は学事普及のため、年々尠なからざる教育依托金というを府県に配布していて、石鐵県も相当の依托金を貰っていたから、それを以て小学校の費用に充てた。月謝は授業料といって松山の各小学校のみに旧藩札五匁(二銭五厘)あるいはその半額を徴収して、それも一家二人以上就学する者には一人の外は免除した、それから学課や教科書も別に出来ていなかったから、私は自分で拵えて、この頃出来ていた福沢物の、究理図解、地学事始、世界国尽し、とかその他文部省出版の単語篇連語篇とかを間に合せに用いた。文部省で東京と大阪とに師範学校を置き、そこから、読本とか、実物指教の掛図とかを頒布したのは、まだまだ後の事であ
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