魯輔氏が大助教塩谷修輔氏岡千仭氏が中助教、また井上頼国氏が中助教であったのだが、多分国学科であったろうか、その他も国学では数々あったが十分に知らない。尤も肥後藩の生駒新太郎氏は最初大寮長で、後に少助教へ転任したのだが、経学家であったから私は心安くしていた。なお少寮長の仙台藩の遠藤温氏と心安くしていた。間もなく私等の数名も経義質問係というを申付けられたが、その頃の事であるから誰も質問に来る者は無いので全く空名であった。それもそのはず博士あたりの講義をせらるる時さえも出席する者は僅の人数であった。実は私も国学の講義で木村正辞氏の古事記を一回聴いたのと、生駒新太郎氏の経書の輪講へ二回ばかり出席したのみであった。しかし私は生来読書が好きだから、他の者よりは勉強して、常に自室に籠って読書をした。書籍は旧来の昌平塾在来のものの外、幕府の紅葉山文庫の蔵書がこの大学に交付されていたから、それを借覧することが出来るので頗る都合がよかった。中には唐本の表紙の裏はベタ金になっているのもあった。これは将軍の座右へも行ったものであろうと思われた。私は藩地の明教館にあった頃漢文では例の紀事といったものはかなり書いていてこれは先生達にも褒められたので、自分にも漢文は出来ると思っていたが、その後御小姓を勤めたり、旅行などしたので、それらの事も全く廃していた。そこで、この大学へ入ったから漢文を書いて見たいと思い筆を執ったが一向に書けない。寮中の先輩に就いて相談すると蘇東坡の文を熟読したらよかろうというので、まず八大家文の東坡の所を頻りと読んで、中には数篇暗誦することも出来た。そうして筆を執って東坡の口真似見たような論文なども書いて見たが、自ら見てさえうまくない。それでも幾つかは書いたのが今も少々残っているが、私は生来文章は不得手なのであった。詩は理窟めいたことばかりいったとしても、それを作る才はあるので、今日は俳句の標準から稀に詩も作って見るが、昔よりは何ほどか詩らしいものが出来る。尤も漢文でも、多年多くのそれを読んでいるから、他人の作は何ほどかわかるが、自分ではもういよいよ気が挫けて二行三行のものさえ書けない。仮名交りの漢文でさえもやはりむつかしい。しかるに最近は口語体の文章が一般に流行するので、それはいつの間にか書き覚えて、今ではどうかこうか、自分の意志を現わし、また人と討論することも出来るようになった。
 その頃の在寮生中にも全く勉強家がないのでもない。私の寮の近傍に居たものでは、前にいった藤田九万氏高橋二郎氏などは随分勉強していたようだ。また文章家の於保武十氏とか詩人で村上珍休氏等とも往来してよく話し合った。また岩崎小次郎氏は大村の藩兵に加って奥羽から帰りだちというので、なかなかの元気で、誰かの書いた和文のナポレオン伝を高声に読んでいたのが今も耳に残っている。また高知の雨宮真澄氏谷新助氏等は随分乱暴家であって、就中谷氏は短刀を抜いて少年を脅迫したことなどもあった。その他戦争戻りの人も少なくなかったが、就中薩州人が多くて、それは皆散髪であったから頗る目に立った。何とかいった人は片腕を失っていた。要するに戦争上りのことでもあるから、人気は一般に荒っぽく、不羈卓犖《ふきたくらく》というようなことを尚《たっと》ぶので、それだけ勉強するものは因循党と見做された。一体に多くの学生は昼間は外出して、懐の有無により大小の料理屋へ行って酒を飲み芸者を呼ぶ。また吉原や深川や品川へ登楼もする。そうして帰って来て気焔を揚げるのが誇りという風であった。私の入寮後間もなく、藩地の明教館の学友が上京してここへ入ることになった。それは由井弁三郎氏錦織左馬太郎氏杉浦真一郎氏山川八弥氏の四人で、以前の知人の外更にこれらの人を得たので、それからは多くこの同郷人と諸方へ出掛けることになった。が、私は他の人の如く多くの酒も飲まぬから、料理屋へ行くとか登楼するとかいうことは、附合いなら別段、自動的には余りせなかった。それよりも芝居を見るのが何よりも楽みで猿若の三ヶ町即ち中村座、市村屋、守田座の変り目変り目には必ず行った。尤も書生の懐だから奢ったことは出来ないが、それでもその頃は、桟敷は勿論土間でも茶屋にかからねば這入ることが出来ぬのだから、茶屋にも馴染が出来てそこから行った。そうして土間の割座でもカ、ベ、スの三品はその頃でも買わねばならぬのだから、それを買って土間の一人分と合せて、一分二朱位を払った。その頃われわれの藩から貰う給費は金十両であったが、太政官札が低れて[#「低れて」はママ]いたから、この札にすると十二両となるので、まず芝居だけは十分に見物することが出来た。また父からも時々送金してくれるので、私は寮生中でもまず懐の好い方であった。
 芝居では中村座の座頭が以前市村羽左衛門といった尾上
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