であった。けれども薩州人が泊っている上に数人の若人が出て来たので先方も穏かに引取ったのであるらしい。また或る日川越しをする時であったが、旅客の多勢が集っていてその荷物なども容易に舟に積んでくれない。旅客は頻《しきり》にあせっている。そこへ或る老人の渡場の差図役が来たが、私の荷物に松山藩と記してあるのを見ると、忽ち「松山様だ、先へ早う。」と呼んで、誰よりも先へ私の荷物を運んでくれた。王政となった今日、松山も何もないのだが、徳川時代の御親藩たる威勢が老人の頭には残っていたと見えて、それには私も頗る今昔の感慨を起したことであった。
 東京へ着した晩は、二本榎の水本先生の母人の家へ他の薩州の人々と共に泊めてもらった。朝起きて見ると、もうその母人は大勢の男女の教場に臨んで、手習の指南や、漢籍の素読を高声に授けていられた。聞く所では水本先生はその尊父の代から江戸の漢学者で、その配遇も女ながらに漢学を修めていられた。その後尊父は亡くなられ、先生は薩州藩に聘用せられて、遂に鹿児島へ行って藩校の漢学の指導をせられていた。そうしてこの母人はやはり江戸に残って、そのまま家塾で幼年男女の教授をせられていたのであるそうな。一見してもなかなか気丈な婆さんだと見えた。その日水本先生はその頃有名な古川端の狐鰻へ学問上の或る知人を招かるるので、私どもにも同行せよとのことで、そこへ行って御馳走になった。客人は肥前人であったが、席上で七言律詩を作って先生に示した。先生は直ちに次韻して唐紙へ揮毫せられた。そして私へも次韻せよとの事であったが、少し臆したのか出来ずと了った。
 その頃我が藩の屋敷は、愛宕下の方の上屋敷は朝敵となった際に没収されたまま返されず、別に小石川見附内の高松の中屋敷を代りに下さった。しかし三田の中屋敷は元の如く下されたのでそこに留守居役や公儀人公用人なども住んでいた。公儀人は藤野正啓氏(海南)、公用人は梯渡氏、留守居は佃杢氏であった。私は藤野氏の寓所へ行って著京を届けて、そのまま泊めてもらった。私は東京へ来ればまず芝居が見たいので、その事を話すと、藤野氏もちょうど見たいと思っている所だと言われて、翌日猿若三丁目の守田座を見物することになった。この座の座頭は沢村|訥升《とつしょう》、立女形は弟の田之助、書出《かきだし》は市川左団次であった。田之助は私が藩地にいる頃より継母方の伯母の山本が江戸から持帰った錦絵や番附でよく知っていて何だか見ずと贔負に思っていたのであるから、実は他の座よりも守田屋を見る事を藤野氏にも勧めたのであった。尤もその時の田之助は、既に脱疽に罹り横浜の医師のヘボンに片足を切ってもらっていたのだが、うまく他の片足を使って芸をして、何とかいった河竹作物の傾城遠山と飛高川の清姫を勤めた。訥升の安珍や左団次の悪僧剛寂などもまだ目に残っている。
 こんな見物ばかりしちゃいられない、いよいよ昌平学校へ入らねばならぬのだからその手続をしてもらって、間もなく許可されて学生となり入寮した。京都より同行の薩州その他の書生も前後して入寮したので、これら知っている顔とは朝夕打寄って話などもするから別に心細くもなかった。この昌平学校へ段々入って来た寮生でその後世間に知られている人を少しばかり挙げると前にもいったが、薩州藩では黒岡帯刀氏長崎省吾氏の外、川島醇氏西徳次郎氏山本権兵衛氏、大村藩では岩崎小次郎氏、肥前藩では松田正久氏中島盛有氏(当時土山藤次郎)、土州では谷新助氏奥宮正治氏、中村藩では相馬永胤氏、久留米藩では高橋二郎氏、富山藩では磯部四郎氏、高鍋藩では堤長発氏、処士では色川圀士氏村岡良弼氏などである。なお公家の子弟に八氏大名の子弟にも八氏あった。それから私の知っている所で、文章家では肥前藩の於保武十氏中村藩の藤田九万氏、詩家では小田原藩の村上珍休氏などであった。この頃はいずれの藩からも昌平学校が開けたというので、入寮生が頻りにふえる。そこで、幕府以来の旧寮の外にまた新寮が出来て、前後の通計では入寮生が四百人以上にもなったと聞いている。かく多人数が居るにかかわらず、余り勉強はせない。その頃の教官は漢学では水本先生の一等教授の外吉野立蔵氏が二等教授私の藩の藤野正啓氏が三等教授、国学では平田|鉄胤《かねたね》氏が一等教授、矢野玄道氏が二等教授木村正辞氏が三等教授であった。間もなく官制を改められて、太政官その他の諸省が出来たので、昌平学校は大学本校となり、開成学校が大学南校医学校が大学東校となって、教員の職名も改正せられた。そこで水本先生と平田鉄胤氏とは大博士、吉野立蔵氏矢野玄道氏外に青山廷光氏川田剛氏が中博士、藤野正啓氏、岡松辰氏が少博士、これが漢学科、また木村正辞氏その他数氏が中少博士になってこれが国学科、なお大中少の助教があって、漢学では亀谷行蔵氏川崎
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