かったので、私は珍らしく同塾生をやっつけたのである。
 水本先生は酒を飲むから酒楼に行くことも度々で、酔って帰ることも多かったが、また塾生を同行することもあった。それは多く三本木の月波楼とかいうので、私も連れられて行って、いわゆる三本木芸子にも出合った。この頃私は七言律詩を二十ばかりも作って、紅楼の興味や何かを聞かじり半分に詠って、小牧始めの同塾生にも示し、また我藩の山本とか、医者で詩をよくした天岸桝玄などにも見せた。これがそもそも私の漢詩で多少の艶態を詠った始めである。
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   十二

[#天から2字下げ]段々と話が今日現存の人にも及ぶから今回より人名には多く敬語を加えることにした。
 私は久しぶりで京都に来たのであるから、常に好きな芝居を見ることも楽んでいた一ツである。そこで折節四条の南座が芝居をやっているので、或る日行って見たが、生憎《あいにく》一等役者ではなく二等位の浅尾浅十郎が座頭に片岡松若が若手の花形、それに中村駒之助が客座で加っていた。『新薄雪物語』の三人笑いやテボの正宗その他を打通しの出し物で、とにかく久しぶりの上方芝居だから面白く見て、二度までも行った。翌明治二年の正月のこの南座は歌舞伎でなくて照葉《てりは》狂言に替って、少し失望はしたが、こんな物は始めてなのでちょっと面白く見物した。
 ちょっと一事余計な話しを挟んで置くのだが、この頃水本塾へ時々遊びに来る人に矢沢某氏というがあって、薩州での旧水本門人らしいが、その後奥羽征討軍の参謀部に従事してそれも今は解任せられていた。この人は最も詩才に富んでかつて桜を詠じたものに『薄命能延旬日命納言姓氏冒斯花、云云』の七律を作って同塾でも称賛を得たそうだ。しかるに輓近琵琶歌にこの詩を入れて作者は新井白石だといっている。これは白石の雪の詩の七律と間違ったもので、その体裁が全く同様なからである。尤も矢沢の桜の詩も無論それに倣ったには相違ない。
 新年早々東京では旧幕府の諸学校を再興されて、漢学専門の昌平塾を昌平学校と称してそれに国学を併せて教授する校舎が出来た。その他以前の開成所を開成学校と称して洋学を教授し、医学所を医学校と称して医学を教授する所となった。そこで水本先生は、昌平学校の一等教授を朝廷から命ぜられて、俄に東京へ行かるることになったので、われわれどもは頗る失望した。尤もその代りとして重野安繹《しげのやすつぐ》先生が来られたのであるが、やはり水本の方を慕うが上に、東京の見物もしたいという希望もあるので、薩藩人を始め、他の藩々の人もイッソ水本の教授せらるる昌平学校へ行こうということになった。私も山本公用人にこれを相談して許可を受けたから、他の学生と共に東京へ行くことになった。尤も水本先生は少し先へ出発されるので、走り井の茶屋まで一同が送って行ったが、先生に兼て馴染の三本木芸子なども数人送って来て、酒宴が開かれてなかなか賑かであった。それから見送りがすんで相国寺へ帰る途中寺町を通ったが、ある場所であちらこちらと人立ちがして何だかつぶやいていて変であったので聞いて見ると、今横井平四郎氏が誰とも知れぬ者に殺されたということなので、もう死骸は勿論血なども見えていなかったが、有名な人の凶事にわれわれも驚いた。
 京都の話しはまずこれだけで、われわれもいよいよ東京へ出発することになったが、同行者は多く薩州人で、他に一、二の他藩人もいた。而して塾長の小牧善次郎氏はこれも史官を拝命して陛下の御東幸に供奉することになったので、あとの塾は重野先生と三、四の学生のみが残ってガランと淋しくなった。私は安政年間十一歳で藩地へ帰った以来、再び見る江戸否東京であるから一入《ひとしお》勇ましく旅行したが、その頃はまだ幕府時代のままで、五十三駅の駅々には問屋があって、それに掛合って馬や駕や人足も出してもらった。尤も書生のことであるから多くは歩いて、よくよく疲れると荷馬の空鞍へ乗って聊か助かる位であった。が、予て私は健足だから、別に苦しくもなかった。宿屋は一行の大勢で泊り込むので、相変らず酒を飲んで雑談に夜を更かしなかなか面白かった。一つ記憶に残っているのは、何処の宿であったか忘れたが、朝早く店先で宿の女房などが騒ぐ声がする、私は何心なく行って見ると、抜身の手槍を持った侍が突立っていて、宿の女房は『ここは薩州様のお宿であります。』と繰返し言っていた。なお私の外にも同行者が段々起きて来て、そこへ列《なら》んだので、右の侍はそのまま帰って行った。聞いて見るとそれは久留米藩の侍で、それらの数人がこの駅へ泊って、出立の際問屋の応接のしぶりが悪かったか何かで、例の気荒な九州武士の感情に障り、直ちに抜刀したから、問屋の役人は皆逃げ出した、それをあちらこちらと追掛けて、そこで私等の宿へも捜索に来たの
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