菊五郎、立女形が坂東三津五郎、書出は忘れた。市村座の座頭は後に市川の九代目となった河原崎権之助、立女形は後に半四郎を継いだ岩井紫若、ここも書出は忘れた。守田座は前にいった通り。それから中村芝翫とか坂東彦三郎とかは、あちらこちらと助けに来て、これは特待の中軸になっていた。なお中村宗十郎とか、大谷友右衛門とか中村翫雀とか、東京へ来ては同姓名のあるのを避けた高砂屋福助なども、絶えず大阪から来て、これは客座に名を出していた。この年の七月であった、沢村田之助は久しく引籠っていたのが珍しく出勤したが、もう両足とも切っていたので、痛みを忍びながら寝たまま三勝半七の三勝が病中の所だとして、左団次の半七を相手に一幕だけ顔を見せた。その後またまた引籠ってしまった。その頃の芝居は随分舞台で猥褻な情態をして、それで見物の興を引く弊もあったが、その筋からも何らの干渉をせなかった。一体に、戦争上りで努めて人心を温和に導くという政策ででもあったのか、太政大臣の三条公さえも、維新の最初は吉原の金瓶楼あたりへ通われたという話しもあった。また山内容堂公は殊に頗る遊蕩を試みられたが、これは維新の際の或る不平を漏らされたものらしい。その他各藩の公議人とか公用人とかいうものは、互に交際と称し公然と遊蕩したものである。また高下にかかわらず官吏は今まで下層の生活をしていたものが俄に多くの月給を取るので、総てが奢り散らしたものである。もう百両前後の月給を取る内には、書生の二、三人を置き学資を給して学問をさせていた位である。
この明治二年に諸藩一同は版籍の奉還という事になって、旧藩主は改めて知事を命ぜられ、執政参政等を大少参事としてなお正権の等差があった。そこで私の父も松山藩権大参事となり、これらと共に藩政にも改革が行われ、その結果私も小姓の役が解けて、干城隊(後に平士上隊と改名)に入ることとなった。尤も留学の命はそのままなのだ。それからこの頃弟の薬丸へ養子へ行っている大之丞が、大学南校の貢進生として藩地より出て来たので、時々昌平寮へも来て面会した。また芝居見物にも随分伴った。
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十三
前にいったような次第で、私は多少見ぬ書も渉猟して勉強もしたが、わざわざ東京の大学に来ているというほどの益もなく、一面には芝居の見物やその他で遊び散らしているという風であった。そこで同郷の学友中にも、こんな事をして日を消しているのは無益だという説が起って、藩の出張員に向って、いっそ学問修業の命をやめて帰藩させてもらいたいといい出し、その許可を得ていよいよ東京を出発する事になった。尤も錦織左馬太郎は、先へ帰ったので、残っている由井弁三郎、山川八弥、杉浦慎一郎と共に私は三月朔日に東京を出発する事になった。そうしてこの帰途は東海道も陳腐だから、木曾海道を通って、それから伊勢参宮や奈良見物をして見ようといい合ったので、発足の日は板橋駅に泊り、それから段々と予定の道中をした。まだ記憶に残っているのは、妙義山が左り手に当って突兀と聳えていた事と、碓氷《うすい》峠を上るのに急坂でなかなか骨の折れた事などである。この峠を登る時、牛曳きが皆子供で、一人が十頭余の牛を追い立てつつ下って来る、その頃の事であるから路巾は狭く、最初はなんだか角で突かれそうで怖かったが、別段な事もなく峠へ達した。峠の茶屋では力餅というを売っている、私等の一行もそれを喰って力を得た。浅間山の麓をめぐる時はそのあたりが渺々たる曠原で、かつて噴火した時の大岩石がそこにもここにも転がっている、仰いでその頂を見ると一抹の烟が空に漂っている、その光景をちょっと珍らしく思った。それから随分疲れたのは和田峠を越える時で、別に急坂ではないが爪先上りの登り道が長いので一行も段々とへたばった。峠に立て場があって、赤飯を売っている、それを疲れた余りたらふく喰って少し腹を痛めた。この立て場は往年筑波山の落人で有名なる藤田小四郎が休息して、『将軍酔臥未全醒』、と詠じて壁に記したとの言伝えがあるが、それは後に聞いたので、私は見ずにしまった。それからこの峠を下ると諏訪である。温泉もあるが入らずに通った。ただ諏訪湖の向うに富士のうしろ姿を眺めた景色は今も目に残っている。それから或る駅に泊った時夕飯の菜に、丸く小さい二寸ばかりのものを幾個か皿に盛って出した。ちょっと見てなんだか判らん、かつて聞く所では、木曾の山中の人は蛇を喰うというから、この丸い長いものもあるいは蛇の付焼きではなかろうかと思って、私ども一行は互に顔を見合わせて箸を付け得なかった。そこで給仕の女に聞いて見ると、なんの事だ、チクワであった。喰っては豆腐だか何だか判らぬような味だが、これでも木曾山中では珍味としていたものらしい。宮越駅辺には路傍に旭将軍義仲の碑が建っていて、その兵を挙ぐ
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