であったから、それを寄親に頼んで入門が出来た。この入門は稽古場で先生に面会をするだけのことで、それから先生と高弟達の宅を訪問して頼むのである。この事は学問所の時にも同じで、おもな教官のうちへは回ることになっていた。
 武場は、藩地では地べたでする事になっていた。上には屋根が無いが、樗《おうち》の木が多く植えてあって、それでいくらか炎日を避けることは出来た。雨天は武場は休みであった。私の入門した頃はもう寒い頃であった。武場に入れば、直ちに裸になり、薄い木綿筒袖繻袢の腰までのを著、それに古袴をはくのである。そして先輩の人につかってもらい、時々は休む。同等の者が互角試合というをやる事もある。
 やがて寒に入って、寒稽古が始まった。面小手腹当竹刀の外に大きな薪を一本ぶら提げ、朝の弁当も持って、朝暗いうちから出かけるのである。薪は或る場所へ集めて火をたいて温まるのであるが、周囲は先輩が占領して、我々は火に遠い所で震えていたものである。そのうち粥が大きな二つの桶に運ばれる。それに沢庵が大切りにして附けてある。これも先輩がさきへ食ったが、しかしかなり普及していた。この粥は一般の武場へ藩から奨励の為に賜わったものである。そしてかの持寄りの薪で沸かした湯が沸くと、各弁当を食べる。我々の食う時はいつも湯が無くなっていた。弁当の菜はめいめい有合わせを持って行く。藩地では私どもは、猪や鹿などを狩りして来たのを分けてもらい、または店から買って時々食べたので、この菜にも稀には獣肉を持って行った。すると外の者等が覗込んで、『ヤマク(山鯨)を持って来た。』とはいいさまドシドシ奪われてしまって、やっと一きれ位しか自分に食べられなかった。けれどもヤマクを持って行くという事は私どもの誇であった。この菜の掠奪は多くの者がやられたもので、中にはまず菜のなかへ自分の唾をはき込んで、掠奪を防ぐ者もあった。藩地でも獣肉は高価であったから、そう度々食うことは出来ないのである。
 武芸のうちには明教館以外で大砲や小銃の稽古もした。小銃に入門をして或る許しを受けた以上は、銃を持って獣狩に行くことが出来た。まだその頃は、少し城下を離れた山には、鹿などが居たもので、それを打取って来れば、一部分を師匠及び高弟に贈る。なにがしが鹿を獲て帰ったと聞くと、近所からも少しいただきたいといって貰いに来る。それを乞うに任せて分ったので、
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