鹿を得た家でも十分に一家で食うことは出来なかった。かかる有様であるから、ヤマクを弁当の菜に持って行って、皆が騒ぐのも無理はない。
私は撃剣へ入門をしたが、試合は頗る下手で、同輩と勝負しても常に負けた。頭をドンドン叩かれるのも痛いものであった。強く叩かれると土臭い匂いがする。それに反して、カタはうまかった。その頃カタのことをオモテといった。入門すると或るカタを習って、進むに従って段式というを貰って、段式相当のカタを習うことであったが、私のカタが一番よいといって、先生がいつも誉めてくれた。
その翌年の春に、君侯の御覧があった。君侯は学問所へは月に二回ずつ来て講釈を聞かれ、武芸の方は春秋二回御覧があった。この時は各流が日をかえて御覧に供するのだが、いずれも晴の場所として技倆を競ったものである。君侯が江戸詰をして居られる一年は、家老が代理をして、これを見分といった。この以外に目付の見分もあった。この御覧には、十五歳以上でなくては出られぬのであるが、学問所の方で三等を得ている者は、年が足りなくても、特に出ることが出来た。そこで私はすでに三等を得ていたから御覧に出て試合をしたのである。私の相手は籾山という者であった。うまくその御胴を打って、それから三番勝負で、私が勝を占めた。これはさきが拙かったからである。
手習ということは、江戸に居た頃は余りしなかった。尤も継母の姉婿の、かの絵をよく描く山本は、書もよく書くので、これに手本を書いてもらって習ったが、私は一体手習が嫌いであった。しかし藩地に来てからは、他の同年輩の者等と共に、どうしても手習をせねばならぬことになった。
藩の学問所は、読書は授けるが、手習は授けないので、別に師を選んで随意に入門することであった。私は武知幾右衛門(号は愛山また五友)という人の手習所へ入門した。この人は漢学者で、学問所の方でも教官をしており、私の父とは従来懇意であり、藩でも殊に烈しい攘夷党であった。その頃は父も同主義であったから親しくしていて、私を引立ててもらった。武知先生は維新後も生きていて、八十ほどで亡くなったが、死ぬまで髷を切らなかった。私の父も私も後には頗る開化主義になったので、そうなってからはこの先生によい顔はしてもらえなかった。
さて手習を始めた所が、よくも出来ず、面白くもないので、ちっとも進まなかったが、先生は漢学の方から、私の
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