の牢屋へ入れて置いたが、やがて牢中で死んだ。
一体この頃の刑法は、別に明文は無く、幕府及び諸藩では皆前例によって刑罰を与えていた。盗賊でも取った金額が多いかあるいは強盗であると、死刑に処するという事になっていた。かの賊も十分死刑にあたるものであったが、死刑にするとなると藩邸で殺す事は出来ない。是非とも幕府の仕置場即ち鈴ヶ森か小塚ッ原でせねばならぬ。これは大変に手数がかかる事だから大抵は牢屋で毒を一服飲ませて殺したものである。かの賊の死んだのもやはりこの一服で死んだのであった。その男は梅とかいう者であったと覚えている。
重犯などでなくちょっとした盗みなどをした仲間下部などは、一日か二日|後手《うしろで》に縛って、邸内の人の立集う所にさらして置き、十分諸人に顔を見知らせた上で、『門前払い』即ち追払ってしまう例である。私も度々この『さらしもの』を見たことであった。
五歳の冬に私は上下着《かみしもぎ》をした。小さな上下に大小をたばさみ、親類うちなど披露にまわった。上下着をしてからは、小っぽけな体でも屋敷外へ出る時には大小をささねばならなかった。もとよりそれは軽い、玩具のようなものであった。屋敷内では上下を着たり袴をはく時の外は脇差一腰だけをさした。脇差だけは子供同士遊ぶ時でも差さねばならなかった。
私の六つになった年の正月に継母が来た。これを大変珍しいことに思った。この継母は春日という家から来たので、その頃は藩地松山にいたが、おりふしその姉の嫁している山本という家の主人が目付をしていたのが常府を命ぜられて出府したので、それに伴われて来たのである。春日の家とは遠縁であった。従って山本とも知合いであった。まだうちへ嫁して来ないその前年の冬に、私は祖母に伴われて山本の家に行き、もう間もなく母になるべき人に逢った事を覚えている。子供心にも珍らしい改った気がした。
この冬、十二月二十四日愛宕の市《いち》へ、私のうちの下部《しもべ》は正月の買物に行った。年の市は所々の宮寺にあったが、愛宕の年の市は芝辺では最も盛んで、藩邸の者もこの市で正月の物を調えたもので、うちの下部もその晩新しい手桶や注連飾《しめかざり》などを買って帰った。父はすぐその手桶に嘉永四年云々と書き認めていた。その時俄に邸内が騒がしくなって、火の見|櫓《やぐら》で鐘と板木《はんぎ》とあえ交《ま》ぜに叩き出した。こ
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