の火の見櫓はどこの屋敷にもあったもので、火事があると係の者がそれへ上って方角を見定め、高声にその方角を知らせ、そして板木を叩いた。鎮火すると鐘を鳴らした。最も近火で、藩邸も危いという時には鐘と板木とあえ交ぜに打つことになっていた。その非常の音を聞いたので、家の者悉く騒立って見ると、我が邸内の君侯の厩から火が出たのである。今も地形が存しているが、私の家は君侯の住居の近くの高台でその厩は表長屋に近い低い方であったから、私も下女に負われてその火事を見た。この時私は始めて火事というものを見たのであった。
 ついでにいうが、私の藩の上屋敷はその以前、私の二歳の時に焼けた。これは『麹町《こうじまち》火事』と称した大火で、麹町から愛宕下まで焼けたのである。そこで上屋敷にいた者も一時は君侯はじめ中屋敷の方に住まって、私の家へも親類の丹波などというのが来ていた。後にその上屋敷は建築された。これについては材木を藩地から取寄せ、大工も藩地のを呼寄せて、素晴らしく堅固なるものを作った。これは明治以後残っていたが、一時陸軍省の管轄となり、その後は私有地となって取りこわされた。或る人の話ではその表門は米国の或る好事家の別荘の門になっていて日本の昔の大名屋敷の門としてその主人の自慢になっているとのことである。
 さて私のうちも継母が来てからは賑《にぎ》やかになった。この継母が来た時私に土産にくれたのは箱根細工の菓子箪笥で、どの抽斗《ひきだし》をあけても各々菓子が這入っていたので、私は大変喜んだ。継母は心得た人で私を十分愛してはくれたが、しかし実母に離れて以来祖母を母としていた習慣は相変らず続いて、継母が来てからも、やはり夜は祖母と寝た、もうその頃は乳を吸いはしなかったが、祖母も私を人手にかけず、私も祖母のみ慕った。
 私は子供の時一番楽しみだったのは本を読むことであった。その頃には絵本がいろいろあって、年齢に応じて程度が違えてあり、挿画には少しばかりの絵解《えとき》がしてあった。桃太郎やカチカチ山は最も小さい子供の見るもの、それより進んでは軍物語《いくさものがたり》であった。それには八幡太郎義家や義経や義仲などの一代記があった。こういう本は子供のある家にはどこにもありまた土産にもしたものであった。外へ出て絵草紙屋の前を通ると私はきっとせがんだ。私は玩具よりも絵本が好きなので、殊に沢山持っていた。
前へ 次へ
全199ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング