は髪が多いとか、少ないとか、白髪があるとか、頭に疵があるとか書いてあるので、それと引合わせて通したものである。
 子供となると、五歳以上の男児で上下着した者は一人前の武士と見なされていたが、それ以下の男児は、男たる事を証明するために、関の役人の前で前をまくって陰茎を示したものである。女の子は振袖を着けて、それだけで済んだ。道中には所々に藩の用達というものがあって、関所にかかる時には、まずその前の駅の藩の用達を呼んで、関所を通るについて万事その人の手でしてもらうことであった。手形も用達の手から関の役人に差出してもらう。同時に賄賂も差出してもらう。この賄賂は多きを要しないで一定していた。もしこれを出さないと何かいい草をつけて川止め以上の日数を浪費させられることがある。
 関所へかかる前には行装も調えねばならぬ。それで箱根では、そこに近い間の宿で休んで、女は髪をあらためられる支度をして髷をほどき髪を洗っておく、父は旅中の常服としては野服といって、今も芝居で見られる鷹狩装束のようななりをしていたが、関所を通る時には野袴を穿き紋附羽織を着、家来も新しいカンバンに改め木刀をささせ、槍と草履とを持たせ、具足櫃も常は後《あ》とになり先きになって持たせたが、この際は父の進む前に厳めしく舁がせる。常には継母と弟が乗る切棒駕籠も、この際は父の乗物として、父のあとへ附けた。そういう行列をして関を通るのであった。
 父は関所の役人へ何ら会釈もせず、突袖のまま通ることが出来た。その次には私だが、私は既に十一歳だから、大小を帯び、父と同じ野袴紋附羽織に改めて通るのである。が、父のように素通りすることは出来ぬ。用達に連れられて役人の前に進むと役人が厳格に『名前は』と問う。『内藤助之進』と名乗る。『通らっしゃい』という。すると用達はもう宜しいとささやいたから、そこで通った。弟は例の前まくりをやらせられ、女連は髪をあらためられた。女のあらためはさすがに男はやらないことになっていて一人そのために婆アが雇ってあって、それがあらためた。賄賂は定まり通り納めてあるので、皆無事に通るを得、次の間の宿で休息し、再び常の行装になって、旅行を続けたのである。
 町人百姓は手形を住地の役筋から貰って通ったものである。この手合の女の検査は武家の女ほど喧《やかま》しくはなかった。町人百姓が何か事故があって手形を貰わなかった
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