際には必ず一駅を一行で占有したものであるから、参勤交代が同時である大名と大名とが相次いで来る時、川止となると、前の方の大名が川端の駅に泊ると、次の大名はその次の駅で泊ることにせねばならぬ。川止のためにこの大名達が土地へ落す金は非常なものであった。
それで少し雨が多いとなると、危険というほどでもないのに、もう舟は出せないといって止めてしまう。これに対してはいかに大名といえども渡る事は出来なかった。またその土地の舟以外の舟で渡るという事は幕府の禁ずる所であった。大井川の如きも人足が渡してくれねばといって、舟を浮べることは勿論禁ぜられていた。なんでも大井川などは早く増水するように特に渡し場の所だけ深く掘ってあるとかいう話も聞いていた。
私どもの一行も川止にあわぬようあわぬようと念じつつ行ったが、大井川は無事に越した。こういう川越しの際の人足もその役筋から雇ってくれるので安かった。私も台輿で渡ったが目がまうように覚えた。或る日途中で父が力を落した風で投げ首で休んでいた。私が怪《あやし》んで聞くと、このさきの砂川(遠州)が止まったといった、それで日はまだ高いのに掛川《かけがわ》に泊った。しかし幸にして翌日川が開けた。砂川は小さな川であるが忽ち増水する川であった。私は駕籠の中から、その川のあたりの並木に藁や芥のかかっているのを見て、前日の増水の有様を思うた。その次には三河の大平川が止まった。これも幸にして一泊で川が開いた。止まった川が開いたというと、旅客が先きを争うて渡るので広い川原も怖しいほど雑沓した。大井川の止まった時肥後藩の侍がこの位の水で止まるはずは無い、どうしても渡さぬなら泳いで渡ると息巻いたが、制する者があって、思い止まったということを聞いた。こういう憤慨はよく方々で聞かれたのである。
川止の外に面倒なのは関所のあらためである。東海道では箱根と新居《あらい》(遠州)に関所があった。関所は幕府で厳重に守らせたものであるが、既に勤仕している武士となれば、手数はかからぬのであるが、女子供を連れると面倒であった。それは幕府の政略として、諸大名の妻子は必ず江戸に住まわせ、藩地へ帰すことを許さなかったので、もしそれらが身をやつして帰国することが無いかという用心からであったらしい。私ども一行は藩より通行の手形を貰って来たが女は関所で頭髪をかき分けて検査される。手形にはこの女
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