時は、関所の前の宿で偽造の手形を高価で売っているのを買って、それで通ることも出来た。この事は黙許になっていた。その偽手形も買わぬ者は関所を通らずして抜道を通った。なんでも手形を持たぬ町人百姓が関所に来ると、役人は『これからどちらへ行ってどう曲ると抜道があるが、それを通る事は相成らぬぞ。』といって、暗に抜道を教えたということである。また或る人の話に、手形の無い者が通りかかると、役人が『こら』と声をかける。その時その者はクルリと向きをかえて、今《い》ま歩いて来た方角へ顔を向けて蹲《しゃが》む。『手形があるか。』と問う。『ありませぬ。』と答える。『それならば元へかえせ。』と厳しく叱りつける。すると『はい』といって向直って関門を出て、サッサと通ってしまう。こういう事も黙許されていたという。旧幕時代は諸事むつかしい法度があるとともに、またその運用に極めて寛大な所もあったのである。
 しかしその抜道には、よく悪者が居て、追剥強盗などをした。それをもし訴えると関所破りをした事がわかるので、災難に遭っても黙っておく。それをよいことにして悪者が暴行をした。かの伊賀越の芝居でも、唐木政右衛門が岡崎の宿に着く際、この抜道を通ったということに作ってある。
 私達の一行は次の新居の関(遠州)も越したが、ここでも手形を出すとか、検査を受けるとか名乗をするとかいう事は、箱根の通りではあったが、ここは役人の態度が、いかにも穏和であった。例えば、私が通る時老人の役人が『お名前は』と聞いた。名乗をすると、『お通りなさい』といった。箱根の『名前は』『通らっしゃい』とは大変な違いである。
 この新居の関は、この地の小さな大名が、幕府からの命令で、受持っていたのである。箱根となると関東唯一の関で、幕府の功臣小田原藩大久保の受持になっていたから、自然厳重な荒々しい言葉使いをしたものである。
 これらの関所の外に、馬のつぎかえをする時に荷物の貫目を検査する場所があった。それは第一が品川で、次が府中即ち今の静岡、その次が草津と覚えているが、その間にも、一つあったかも知れぬ。この検査の時も、用達に周旋をさせ、問屋の役人に賄賂をつかうと、少々貫目が多くても通してくれた。もし賄賂をつかわないと、貫目が少くても多いといわれることがある。役人の手儘に目方をかけるのであるから、重いも軽いも手加減次第でどうでもなった。その賄賂
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