それは十月のことで、寝巻のままでは風邪を引くから、一度内に這入って着物を着て、更に外に出た。見ると屋敷から東北は一面の大火事で、空が真赤であった。幸に私の住んでた中屋敷の方は、地盤が堅固なので、唯長家の端が少し倒れたのみで、それも怪我人は出さなかった。上屋敷の方は地盤が悪いので、その辺に倒れた屋敷が沢山あったが、前にもいった如く、嘉永元年に焼けて後極めて堅固に再築したので、そんな地盤の上に在りながら、この上屋敷だけは破損はしなかった。
 我が藩邸と違って他の藩邸は多く潰れた。そして火事となったので死人も多く出た。翌日私の藩邸に親類のある他藩の者は続々避難に来た。皆着のみ着のままで、親を失い、子を失い、実に気の毒な様であった。或る人は、兄が梁などに敷かれている様子で姿が見えぬので、『兄さん兄さん』と呼ぶと、潰れ家の下から返事をした。やれ嬉しやと、『早く出て下さい』というと、『うむ、今出る、今出る。』といったが、いつまでも出て来ない、助け出すことも出来ぬ。そのうち火がまわって、『今出る、今出る。』という声が段々小さくなって絶えてしまったという話しも聞いた。
 大地震のあとはいつもそうであるが、当分のうちは夜となく昼となく地震がある。それで家に落着いては居られぬので、その夜から門前に戸板を囲い畳を地に敷き、屏風を立てまわし、上に油紙など置いて、そこに居た。父は宅に居た。曾祖母もそんな仮小屋は厭だといって宅に居た。祖母継母私下女などは皆この小屋住居をした。
 大地震の夜はその止むか止まぬに、諸大名は直ちに幕府へ御機嫌伺いに登城したが、将軍家は紅葉山に御立退になっていて、私の君侯は自ら提灯をさげて行って親しく御機嫌を伺われたという事を聞いた。幕府からは奏者番や御使番が藩々の屋敷を見舞った。君臣ともに礼儀を尽したものである。
 その翌々年八月に大風があって、地震ほどではなかったが、江戸中大災害を蒙った。この時も私の藩邸はさしたる損害も無かった。
 それからコロリ(虎列拉《コレラ》)の流行ったことがあった。これはいくら建築が建固でも安心は出来ぬもの。私も子供ながら非常に怖かったが、私の内には幸いに一人も患者を出さなかった。
 異人、地震、大風、コロリ、これらが私が江戸に居る間に脅かされたおもなる事件であった。
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   三

 いよいよ一家国許へ帰ることになったが、
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