旧套を守る主義であったので、激しい衝突をした結果、当時目付から側用達という重い役になっていたのを忽ち免ぜられてしまい、側役の礼式という身分で家族を引連れて藩地松山に帰るべき運命になった。これは私の十一歳の時であった。
父は別に学者ではなかったが、一通り漢籍を読み得た。私は八歳の時から素読をはじめ、論語孟子などを父に授かった。素読のみならず意味を教えてもらった。私はこの漢学に大変興味を持ったので、進みもよく、人に賞められた。或る時父が厠へ上ぼっているのを待ち兼ね、文字を問うためその戸を開けたので、お目玉を喰った事もある。いたずらをする時は『もう本を読まさぬぞ』といって懲戒された事もある。この藩邸内には漢学を授ける所もあったが、私は父のみに学んだ。私はよく『子供らしくもない、学者くさい。』という評を受けた。
私は豚狩や喧嘩をするよりは読書が好きだった。一つは臆病者であったので外へ出るより内で本を読む方が好きになったのかも知れぬ。その頃の子供の遊びでは、『ねッ木』といって、薪の先を削ったのを土に打込み、次の者がそれへ打当てて土にさし、前のを倒し、倒した木は分捕るという事が流行《はや》った、独楽《こま》もよくやったもので、前の独楽を、後の独楽で廻いを止める事をした。その頃は大きな独楽をまわす事が流行っていた。その外、鬼ごっこ、駈けっくら、隠れん坊、すべてそういうような遊びをすると私はいつでも負けた。そうして男のくせに私は雛が大変好きであった。私の内には祖母が二人、それに継母が居たので、いくつかの雛を持っていた。私は節句になると、小さな雛などを買ってもらって立てた。よそへ行って雛の小さな膳で物を食べてみる事もあった。私の内には雛の膳が無かった。これを私は大変に残念に思った。江戸住いになる時に国許で売払ったのだと聞いた。
寄席へも私はたまに行った。産土神の春日の社の境内に、一つ寄席があった。維新後は薩摩ッ原に移って春日亭といった。あそこで蝶之助という独楽まわしを感心して見たことがあった。義太夫は飯倉の土器坂へ一度聞きに行った。文句はよくわからなかったが、千両|幟《のぼり》の櫓太鼓の曲弾を子供ながら面白く感じた。
子供の時の記憶で最も驚いたのは、安政の大地震であった。それは夜の四ツ時で、私はもう眠っていた。私は人に抱かれて外に出た。そして今大地震があったという事を聞いた。
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