あった。
どうも日本の武器のみでは駄目である。西洋式の大砲を仕入れなくてはならぬ、また軍隊も西洋式の訓練をしなくてはならぬとの意見が方々に起った。私の藩は先々代が彼の海防に留意された桑名楽翁公の甥であったので、大分開けていた。『うえぼうそう』の如きも楽翁公が奨励されたので、私の藩邸でも早くよりこれを行い、私も四、五歳の時にした。この頃亡くなられた君侯は薩州から養子に来た人で、薩州では有名な斉彬《なりあきら》公が西洋通で、この縁からも、新知識が我が藩に注入されていた。
それで私の藩邸には、琉球から薩州にも及んで盛んに飼われていた豚を買い入れて沢山飼っていた。これは食用にはしなかった。何でも豚というものは汚物を食うので屋敷内を清潔にしてくれる、それから火事の時には火に向って強い息を吹掛けるから火除けになるという事を聞いていた。子供等はよく『豚狩り』と称してこれを追い回した。残酷にしてはならぬとよく叱られたものである。
軍隊洋式調練の必要が唱えらるるや、我が藩は直ちに採用して、和蘭《オランダ》式の銃隊を編成することとなり、その教授のために下曾根《しもそね》〔金三郎〕の門人なる小林大助というを召抱えられた。邸内でも調練があって、近習等も隊に入って稽古した。私も珍しく思って見物した。雨天には殿中で行われた。進退の合図は太鼓で、これは子供の受持で、藩士の伜などが稽古して打った。私もこの太鼓打になりたいと思って父に願ったが、あんな事はするものでないといって許してくれなかった。
私の父は西洋嫌いであった。しかるに君侯は盛んに洋式調練を奨励されたので、一時我が藩の銃隊は出色のものになった。服装は、尻割羽織を着、大小を差したままで筒を持った。身分ある者は指揮方を稽古した。筒持つ者は足軽であった。この事は藩地にも及んでそこでも和蘭式の銃隊を編成せんとした。こういう勢になって来たので、これまで門閥によって高い地位を占めてる者は、銃隊に熟した若い者に権力を奪われそうになった。その不平や、夷狄《いてき》の真似をするのは怪しからぬという憤慨やらで、門閥家の方から反対の声が起った。遂にこのために江戸詰の家老等も改革を押通すことが出来なくなり、君侯も意を曲げられて、銃隊は日本式大砲のみを洋式にするという事になった。
私の父は、後には藩中でむしろ新知識のある方であったけれども、その頃には全く
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