分取品を得た誇りがあったのである。あまり大きい凧は不利益であった。まず西の内紙二枚半というのが戦に適当で、四枚六枚八枚のは唯揚げて楽しんだ。戦には風の向きでよほど得失があったが、巧な者は手繰ることが早いから風の向きのみで勝敗が決するという事もなかった。凧の糸には多く小さな刃が附けてあって、それで敵凧の糸を切るのであった。
 藩邸の凧揚げは右の通りの有様であったが、なお町家でも凧揚げをした。これは往還でも揚げたが、多くは屋根にある洗濯物の干し場で揚げた。町家同志ではからまし合いはなかった。また藩邸のが町家のとからまし合いをするという事は決してなく、そういう事をすると恥辱としてあった。
 凧の種類をいえば、今もある長方形のものの外に奴凧があった。これは主として小さな子の揚げたのだが、奴凧でもかなり大きいのもあった。障子骨というのは縦に三本骨がある凧で、からますには丈夫であるが、それだけ手繰るには不便であった。縦一本の方が工合が宜かった。凧の面には多くは『龍』とか『寶』とか『魚』とかいう文字が書いてあった。絵凧には達磨、金時、義家、義経などが描いてあって、なお障子骨になると、『二人立ち』『三人立ち』といって、二、三人の武者が描いてあった。これは価も高かったので、こういうのを持っている事は誇りになった。凧糸は凧の大小に従って太さに等差があったが、からます時には凧の大きさよりは一、二等ずつ上の太い糸を用いたものである。
 鳥追《とりおい》は藩邸には来ないのであったが、町へ出るとよく見掛けた。深い笠をかむり綿服ではあるが小綺麗な物を着て、三味線を弾いて歩いた。これはいわゆる『非人』から出たので、この鳥追の中から『鳥追お松』という名代の女も出たのだ。鳥追の女は正月以外の時には浄瑠璃などを一くさりずつ語って歩いたもので、また端唄なども唄ったかと思う。
 正月の中旬になると、甲冑のお鏡開きがあった。武門では年始に甲冑を祭り鏡餅を供えたので、それをお鏡開きの時に割って汁粉にして食べるのだ。君侯の館でもこの事をして、おもなる藩士に振舞われた。めいめいの家でもやった。もう鏡餅は堅くなってるので斧を以て勇ましく打割ったもので、汁粉の膳には浅漬を唯一つ大きく切ってつけた。『ひときれ』という武門の縁起で、斧を以って割るという事も陣中のかたみである。
『ひときれ』といえば、その頃江戸では『辻斬』が
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