に最も楽しかったのは正月であった。元日には君侯が登城をする。その時に限り上下でなく衣冠《いかん》を着け天神様のような風をする。供もそれに準じた服を着た。私の父も風折《かざおれ》烏帽子《えぼうし》に布衣《ほい》で供をした。まだ暗いうちに、燈のもとでこの装いする所を、いつも私は珍しく見た。君侯の姿はよく見たことはなかった。唯父から聞いたのみである。
正月には万歳《まんざい》が来た。太夫は皆三河から来たが、才蔵は才蔵市で雇うのであった。その頃は各大名屋敷とも万歳を呼んだ。私の藩主は勿論私の内も呼んだ。但し君侯へ出る万歳は大小をさしている格のよい万歳であったが、私どもの内へ来るのは一刀であった。万歳にもそういう地位の等差があった。二刀のは礼物を多くせねばならぬ故、私の内などの身分では一刀のを呼ぶのであった。君侯でなくとも歴々の者は二刀のを呼ぶのであった。私どもは内の万歳を見る外に、よその万歳をも見て歩いた。万歳の尻には子供は勿論大供も跟《つ》いて行った。才蔵は随分しつこく戯れたもので、そこに居る若い女などにからかい、逃げ出すと勝手向までも追掛けて行くこともあった。舞が終ると、内では膳に米を一升盛り、銭を包んで添え、そしてちょっと屠蘇《とそ》を飲ませた。
正月の遊戯で盛に行われたのは凧揚げであった。男の子は大概凧を買ってもらい、またよそから贈られもした。各《おのおの》これを揚げて楽《たのし》むこともするが、唯揚げるばかりでなく、凧合戦をする事が盛んであった。これは子供でなく、二十歳近くの者が先立ってやった。合戦というのは隣屋敷の凧とからまし合いをすることである。私の屋敷では、北隣は久留米藩有馬家、南隣は島原藩松平主殿正、西は砂土原藩小さい方の島津であった。私どもの屋敷ではこの三つの藩邸と凧合戦をした。からんで敵の凧をこちらへ取ったのが勝となっていた。遂には罵り合《あい》を始め、石の投げ合までにも及んだ。そこで藩々の役人等は、互に相済まぬというので青年を戒めたが、その当座は止めていても、ほとぼりが醒めるとまた始めた。それでまずは黙許という姿であった。
からまし合いは、とても子供では出来ないので、大きい人に貸して、戦に勝つと敵の凧はその勝凧の持主なる子供のものになるので、自分の凧が殖えるので喜んだ。もっとも大概からまし合った凧は折れ破れて揚げることなど出来ぬものであったが、
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