実に頻繁に行われた。これは多く田舎出の侍が新身《あらみ》の刀を試すとか、経験のために人を斬るので、夜中人通りの淋しい処に待ち構えて通行人を斬った。斬られるのは大抵平民であった。私が小さい頃稀に邸外へ出たのでも、よくその死骸を見た。斬られた死骸は、しばらく菰《こも》を着せてその場に置いて、取引人が引取って行くのを待った。直きに引取人が出ないと、桶に入れて葭簀《よしず》で巻いて置いたものである。
 或る時、私の内の藩から渡った米俵に鼠が附くというので、家来が葭簀で巻いたことがあった。私はそれを見て、辻斬のように見えるから厭だ、といって取らせたことがあった。
 その頃は、今の芝の公園と愛宕の山との界《さかい》の所を『切通し』といった。ここは昼の見世物や飲食店が出て、夕方には一面に夜鷹の小屋が立って、各藩邸の下部などが遊びに出かけて、随分宵のうちは賑ったが、これが仕舞うと非常に寂しくなった。その時分になると、ここで辻斬がよくあった。『切通し』という名は勿論山を切って道を通したという意であるが、私は子供心にしょっちゅう人を切るから、『切り通し』だということと思っていた。
 芝の増上寺の境内は、今の公園の総てがそれで、その頃は幕府の御菩提所というので威張っていた。私の中屋敷から愛宕下の上屋敷へ行くのには、飯倉の通りから、この切通しを回ったが、赤羽から増上寺の中を抜けて行くと大変近いのである。私どもの君侯は上屋敷に居られ、中屋敷には若殿が居られたので、この間の藩士の往来は頻繁であった。これらが増上寺の境内を通るので、その抜ける事は許されていたが、もし弁当を携えているとやかましかった。大抵藩士は身分により、一人二、三人の家来を連れており、草履取《ぞうりとり》が弁当を持ったものだが、弁当を認めると『止まれ』といわれて中を検査された。それは『なまぐさ』があるか否かを検《しら》べるので、あると境内を汚したというので事面倒に及んだ。藩邸に懸合って、遂に藩主までが首尾を損することになった。それで弁当だけは飯倉から遠回りをすることになっていた。しかし少しの賄賂を使うとなまぐさの入った弁当も無事に通ることが出来た。
 私も家族に連れられて増上寺境内は度々通った。怖い心持がいつもした。あの赤羽から這入ると左側に閻魔堂がある。あれも怖かった。長じて後もその習慣で、あの閻魔堂の前は快く通ることは出来な
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