せ、まだ余った兵は藩の和船に乗込ませて、防州大島郡というへ向わせた。この島は敵も少し油断していて守りの兵もさほど置《おい》ていなかったので、我藩の兵はその島の上の庄というへ討ちかかって、敵が散乱したに乗じてそこを占領した。同時に幕布の[#「幕布の」はママ]方でも洋式で訓練した歩兵隊というを別の軍艦に乗せて大島郡へ向わせたのが、我藩と諜じ合せ他の港へ討ち込んだ。この大島郡は一時敵対する者がなくなったので、この捷報が聞こえると、世子は気早で多少勇気のあった人だからモウ三津浜には居たたまれず、自分も大島郡へ向おうといい出された。けれど別に適当な軍艦もないし、和船では危険だし、かつその後の様子も判らないのだから、側用達でいる父などは、今少し待たれたがよいといって諫めたが、世子はなかなか承知せられぬ。そこで城下にいる藩主からも暫く持重せよという命が下ったので、世子は渋々ながら止まれた[#「止まれた」はママ]。
この時私も生れて始めて戦場に向うのだという決心をした。この慶応二年さえも我藩の軍隊は、源家古法と甲州流を折衷した旧式編制であって、弓隊こそ廃したれ、銃隊の足軽は丸玉の火縄筒である。士分以上は撰士隊と称して槍を持っていた。そうして身にはやはり甲冑を着け、それぞれに指物を背にした。で、私もやはり具足櫃に甲冑その他を入れ、槍も一本携えていた。かつていった如く下手ながら撃剣は少々稽古していたなれども、槍は少しも習っていない。その習わぬ槍を揮って世子の御馬前を警護して敵と戦わんとしたのは、今から思えば馬鹿々々しい次第である。されどその時は何とも思わず、敵に逢ったら力限り働くつもりで、まさか打ち勝つとも確信がなかったが、敵に討たれて死ぬという事も別段怖くもなかった。この時は十九歳であったが、今の兵隊が二十歳の丁年で従軍して敵に対って別に怖れもせず、勇往奮闘する心理状態の如きも、これから推すと不思議はないのだ。尤も私も少しは戦場の練習をして置きたいと思って、まだ出陣せないで宅にいた頃、座敷で甲冑を着て抜身の槍を手で扱いて見た事があった。持ち馴れぬ槍とて随分重かった。それでまさかの段には槍を捨てて抜刀して切り込もうという考えもしていた。何しろ戦場に向う覚悟といっても、経験のない者は、誰れも私位の考えでいたのが多かったろう。
しかるに出先の軍隊から急報があって、上下一同に色を変じたの
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