は、大島郡の敗報である。後で聞けば、長州方には大島郡に幕布方が[#「幕布方が」はママ]討ち入ったと聞いたので、それは捨て置けぬといって、有名な高杉晋作などが軍隊を率いて密に海路を経て島の後へ渡った。それを我軍は少しも知らず、全島を占領したものと思って、三日目には一の手、二の手、新選隊が三方から源明峠その他の山頂をさして登って行った。すると頂上に敵が現れて突然小銃を乱射した。我兵は不意を討たれたので吃驚した上に、地理も悪いから、一|雪崩《なだ》れになって三方共に退軍した。この時二の手で目付役の軍監を兼ねていた佐久間大学(賤《しず》ヶ|嶽《たけ》の佐久間|玄蕃《げんば》の後裔)と、その他四、五の士分が踏止まって敵と戦って、その三人は枕を並べて戦死した。就中佐久間は目覚しく働いたと見えて、敵も感心して、その後戊辰の年長州兵が我藩に征討に向った際、この佐久間の墓を数人で弔ってくれた事さえある。しかのみならずこの佐久間を始め戦死者の遺骸は長州で埋めた上に、標の石を建ててくれたという事である。これらは武門の習いとしても芳しい話だ。そこで我兵は一足退くと勢い如何ともし難く、浮き足となって終に上の庄まで引いた。なおそこも敵に圧迫さるると困難だというので、隊長の家老始め一同の兵が皆軍艦その他の船へ乗り込んでしまった。この有様を想像すると、彼の平家が一ノ谷が敗れて争って船に乗った様にも似ていたろうかと思われて、今でも残念である。
 この幕府の長防再征は、元々騎虎の勢いなので、寄せ手の兵はいずれの口もさほど士気が振っていなかったのだから、芸州《げいしゅう》口の井伊榊原も夜襲を横合から掛けられて、散々に敗走するし、石州口は、津和野藩は早く長州に内通していたから、長州兵はそこを通り越して浜田領へ攻め込み、浜田藩主は終に雲州まで落ちて行かれた。また九州口はこれも長州兵の方から反対に攻め込んで、小倉藩は随分奮戦したけれども、終に落城して藩主は肥後へ落ち行かれた。こんな際に我藩だけは暫時ながらも敵地を占領したという事は、ちょっと名誉であるが、始めよし後わるしで、一敗して最初の勇気が挫けた。世子の本陣でもこの敗報と共に今いった諸口寄せ手の敗報もそろそろと聞えて来たので、再び進撃することの不得策を知って、終に先手その他を藩地の近島まで引揚げられた。これで見れば、世子の渡海せられなかったのはまだしも名誉
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