れるのみならず、世子にも度々詞を交されて親しくなって、別に怖いという感じもなくなった。また私は年齢に比しては世間知らずの青年であったから、世子に対しても随分率直な答えなどをするので、その点は世子にもかえって愛せられていたようであった。
 いよいよ長防討入りという事で、幕府から軍監を差下さるるようになった。元治甲子の初度の征伐は藩主が出陣して、領内の神ノ浦まで本陣を据えられたのであるが、毛利家が恭順したので、間もなく帰陣せられた。そこでこの度は世子が藩主に代って出陣したいと幕布に[#「幕布に」はママ]願い、許可を得られたので、まず三津浜まで出向して本陣をすえられた。私もその際家族と別盃を酌んでいよいよ生死の別れをした。三津浜では藩の船番所を世子の御座所となし、我々は町の人家を徴発して下宿した。これも今日の俳句生活と一つの関係だが、私の下宿は木綿糸の糸車を造る老人夫婦の小さな家であって、この老人は発句を作って何とかの俳号も持っていた。何か書物でも見せろといった時、発句で高点を取った巻などを見せた。なお小さな床には鶯居の名でこの老人へ宛てた手紙を懸軸にしていた。この鶯居は藩の一番家老の奥平弾正という人のことで、かなり発句も出来て藩以外の宗匠達とも交際をしていた。今松山に居る野間叟柳氏などもこの人の門人だと聞いている。かような御家老の手紙を、糸車造り風情が貰ったのだから頗る自慢をして床に懸けて、我々にも見せていたものである。がそれらの発句は私には何らも趣味を有《も》たなかったのであるから、今は記憶していない。この下宿には今一人同僚の先輩たる山内駒之助というが居て、これも多少漢学をしていて、かつては明教館の寄宿舎で寮長でいた関係もあるから、殊に親しく話し合っていた。この外同僚中私の従弟の小林伊織とか山本新三郎とかもよく来て、漢学や詩文の話を仕合った事である。この小林は文章がよく出来た。
 長防へ討入るといっても、海を隔てているから、船でなければならない。もうこの頃は大砲の術も漸々発達しているので今までの兵船たる関船では間に合わない。そこで兼て藩から幕府に願って、軍艦を借用したいといった結果、小形ながら蒸汽船二艘をさし越された。勿論その艦長や操縦者は幕府人が乗り組んでいた。この軍艦に藩の軍隊の一の手二の手、これはまだ旧式の隊であるが、外に西洋式の新選隊というのをこの軍艦に乗込ま
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