口はチャリンと錠が下りる。これもなんだか囚人の受取渡しでもするような有様であったのだ。
 他の藩でもそうであろうが、私の藩で家老と他の藩士とは、非常の等差のあったもので、家老はその他の藩士を何役であろうが呼び捨てにする。藩士は某様といって殆んど君公に次いだ敬礼をする、途中で出逢っても、下駄を穿いている時はそれを脱いで地上に跣足《はだし》で立たねばならぬのだが、それを略して、下駄のまま鼻緒の上へ足を乗せて、型ばかり脱いだ式をした。その位の関係であったにかかわらず、世子から家老の某を呼べとの仰があれば、我々小姓の一人は直に御次ぎの外なる御家老部屋へ行って、そこに厳めしく並んでいる家老に対って、此方は片膝を折って片膝を立てたまま、一礼もせず、『某召します、』と大きく呼ぶ。家老は直に平身低頭して、畏りましたと御受けをする。この時自分は君公の命を伝うるのであるから、なかなか威張ったもので、平常家老に対して頭を下げた不平を聊か漏らす事が出来た。これは小姓の一つの役得といってもよいのだ。一体封権の世では君臣の間という事は厳重であったから、君前においては互に名を呼び捨てにする。家老であろうがまた親であろうが皆呼び捨てだ。詞遣い等も『どうしませい、こうしませい』といって決して敬語を用いない。『兜軍記』の榛沢が、『サア阿古屋立ちませい』という詞がちょうど同じだ。今の活歴芝居で、君前にありながら、『某殿』などとよく呼んでいるのは、封権時代の事実の不調べなのである。
 前にもいったが、世子は文武の修業をしられていたので、武芸では私と同じ橋本新刀流の門であったから、私も御相手という命を蒙ったが、例の下手である故一度も世子との仕合はせなかった。これに反し、漢学講義とか輪講とかいう際は私も加わって相応に口をきいた。また詩会なども時々あって、それは東野の別荘で催おさるる事もあって、ちょっとした酒肴を頂く事もあった。平常でもお次ぎでは、側役を始め我々小姓も、読書することを許されていた。漢文、仮名物、その力に応じて読んだもので、少々は声を出して読むことも許された。以上は多く私の直接に仕えた世子についての様子だが、藩主といえども大概同様であって、ただ横に寝る時側役の許可を得るに及ばぬのと、奥入りを日々することの自由が異っていただけである。
 そこで私も帰藩後は右の如き小姓の勤めをして、漸々とその儀式に馴
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