かった。なお一つには父が枢要の位置に居るということにも御陰を蒙っていたのであろう。父もその時やはり世子の御供をして、目付と側用達とを勤めていたのである。
 翌日からいよいよ小姓の勤をするのだが、従来の例としてまず見習いということをさせられる。これは同僚の詰所の一方へ新参の者を並ばせて、何事もさせず、ただ先輩の同僚の執務するのを見せるばかりである。この時間は口をきくこともならず厠《かわや》に行くのも断って行く、弁当も古参から食べといわれねば勝手に食うことは出来ない。そうして肝腎の君側の執務は間を隔てているから、何らも知れないのである。つまり太平の余習として何に限らず、古参は新参に威圧を加え、それで位地を保つというような弊が、この小姓などの仲間にもあったのである。この見習いは常なら五日ばかりもさせられるのであるが、軍事を兼ねた旅行先であるから、我々のは二日ばかりでモウ見習いを免された。そこで翌日から世子にも拝謁して直々に御言葉も給わるし、また三度の御膳の給仕もするし、寝床の出し入れから衣服の取扱いまでをするのである。この君側のことはなお次ぎに詳しくいおう。
 小姓の勤めは、朝番というのが、六ツ時から午後の八ツ時まで、八ツ番というのが八ツ時から夕の六ツ時まで、宿番というのが六ツ時から翌朝の六ツ時まで、互に交代したものである。そうして宿番は宵のうちこそ世子も起きられているがその後寝床へ入られても、小姓は不寝番というをせねばならぬ。そこで宿番を宵前、宵後、暁前、暁後と四ツに別けて、代りやって不寝番をする。この不寝番は一人で、他に介というが一人ある。世子が夜中厠に行くといわれると、不寝番が、直に寝ている介を起して、二人でその用を勤めるのである。僅かな距離の厠でも、一人は脇差を持っていて、厠に入られた間はその外に待っている。モウ用達が済んだらしい音がすると、一人は厠の中の手洗鉢のある所まで行って、世子の手へ水を濺《そそ》ぐ。それから床に入られると、もとの如く一人は起きて、一人は介だから寝るのである。この不寝番は、以前はそんなこともなかったらしいが、世子の側に附くものは、文武を励まねばならぬというので、不寝番でも読書することは許された。尤も黙読である。また寒中は火鉢を置くことを許されたのみならず、ちょっとしたドテラ見たようなものを背に着ることも許されていて、それを御不寝羽織といった
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