看病に京都へ行った時既にこの瘧に経験があるので、そこで自分で治す事も出来ようと思って、ちょうど備後の鞆《とも》の津《つ》に滞船した時、自分で陸へ上って薬屋で幾那塩を買った、この港は例の保命酒の本場であるから、彼方此方に土蔵造りの家屋も見えて、かなり富んでいるように思われた。それから例の如く幾那塩を飯粒の中へ入れて丸薬にして、かつての記憶の如く三度に飲んだ。後から思えばこれは、劇薬の部で分量もよく調べねばならないのに、大概の目分量で飲んでしまったが、別に害ともならず、翌日から全く熱が下った。そのうち大阪へ着いたから、これからはいつもの三十石の夜船に乗るはずなのだが、長州再征なぞの公用のために殆んど空いている船がないというので、終に一晩大阪の藩邸に泊って翌日は陸路を伏見へ行くことにした。これからは同船した一行も銘々勝手に行くことになったが、我々の同僚四人は連れ立つことにして、いずれも歩行で枚方に昼餉をしたため、それから伏見へ着き、なおその足で京都まで行った。この里程は十三里もあるのだから、同行中の年少者たる野口は時々歩き悩んで、路傍の草の上へ倒れたこともあった。しかるに私は瘧が落ちて間もないのだけれど、さほど弱りもせず、他の人々に比して後《おく》れずに歩いた。私は今でも足はかなり達者だが、他の身体の割合に足が比較的丈夫なということは、この頃からもそうであったのだ。
 世子の本陣は、前年と同じ寺町の或る寺であって、その供方の者どもは、いずれも近傍の寺々を借りて置かれていた。そこで私どもはその本陣へ行って到着のことを届け、同僚はじめ他の役々へも挨拶して、それから同僚どもの居る或る寺へ下がって旅装を解いて、いよいよそこへ落着くことになった。同僚は我々どもを加えて二十三、四人も居たろう。先輩では木脇兵蔵、野沢小才次、菅沼忠三郎、それから小林伊織、山本新三郎、この二人は私の従弟である。また小姓の上に立って君側の監督等をしている側役《そばやく》なるものも三、四人あったが、その中に下村三左衛門というは私の叔父である。その他にも前から顔を知っている者もあるので、兼ていう如く内気な私でも、さほどの心配もなく、最初より親しく交際もした。その上に、私は漢学が出来ているということは多少知られていたのだから、同僚中でも漢学の出来る者は最初からそんな話もするし、その他の人々も何ほどか新参扱いにしな
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