もしていられたが、一方には文武の修業をせられつつあった。そこでお相手として文武の力を持った近習を要するので、そんなことから終に私も小姓に抜擢されるに至った。父もその時は争わなかったと思われる。そこで祖母はじめ一家の喜びはもとより、私も久々で嬉しい思いをした。それと共に吃る癖がさっぱりと癒って、君前へ出ても何ら差支ないことになった。この事だけでも私が既に相当の年になっていながら、内気で稚気が離れなかったことが分かるのである。
小姓になると共に寄宿舎を退いた。この際初めて六等を得た。これで御雇の資格も出来たのである。しかし小姓は前にいった番入と同じ勤仕の仲間で、年々父の禄の外に三人扶持を賜って銀六枚などよりは遥かに身分もよかったのである。
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九
世子は当時、家茂将軍の長洲再征の御供として、京都に一隊の藩兵を率いて滞在して居られたので、私もそこへ行って勤務をすることになった。私と同時に小姓を命ぜられた者は岡部伝八郎、中村勘右衛門、野口勇三郎であったから、この四人が三津浜から大阪行の藩の船に乗り組んだ。この船は何時《いつ》もの荷船ではなくて、関船といって、常には君公か、家老の乗るのであるが、折節船の都合でそれへ乗せられた。勿論同船者は他にもあって、物頭役の戸塚甚五左衛門とか、平士の長野、岡部、伊佐岡とかいう者も乗組んでいて、戸塚はじめ我々の家来なぞもあるから、随分多人数が乗ったのである。戸塚はモウ老人であったが、大いなる瓢箪酒を持ち込んで、ちびりちびりと飲んでいて、折々私どもへもくれたが、私はその頃全くの下戸で、もし猪口に二つか三つも飲めば吐くという位であったから、断って一口も飲まなかった。関船にはちょっとした座敷造りの狭い間が二つもあって、上の間は戸塚一人で占領し、次の間に私どもの小姓四人が居た。それから平士の三人は舷の或る間に居て、また他の舷には大勢の家来が居た。この家来は、下等な者であるから、退屈の余りには種々の噺《はな》しを始めて、中にはのろけ噺しもするし、随分猥褻なこともいっているので、私は始めてそんな噺しを聞いて面白くもあったが、また厭わしくなって来た。この海路はさほど長くかからずに大阪へ着いた。私は出立の頃から少し風邪を引いてるように思っていた、それが段々と熱も加わって、終に一日おきの間歇性即ち瘧となった。私は前にもいった如く、父の
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