。この宿番は小姓の外側役も一人居る。側医師というも一人居て、これは小姓の中へ交って不寝番もせねばならなかった。医者で思い出したが、私の京都に着した頃から、風邪が流行していて、我々の同僚も風邪に罹り、遂に前後して誰一人罹らぬ者もないようになった。こんな時は無論引籠りといって、届さえすれば本復するまで勤をせないでもよいのである。私も数日床に就いた。この同僚の居る所は、二十三、四人が三室ばかりに襖を外したままで居るのだから、寝床を敷けば殆んど足の踏場もない位に窮屈であった。そんな風だから風邪の伝染しやすいのは尤である。この頃の風邪の薬は例の葛根湯で、少し熱が強ければ、セキコウを加える。咳がすれば杏仁を加える。この外多少蘭方を知っているものは、葛根でなくて茅根を用いて茅根湯といっていた。
 前にもいう如く、小姓の勤めといっても随分暇があるのだから、その時は外出も勝手次第にしていた。遥か前の号で、江戸藩邸の勤番者の非常に外出の束縛を受けていた事を話したが、この頃はこんな旅行の出先では、余り束縛もなく全く出入自由である。けれども、将軍再征に関する陣中ということは誰れしも心得ているし、長だった者からも監視を加えるからさほど遊蕩に耽ける者はなかった。就中世子の側に仕えているものは、一層謹慎しているから、外へ出て酒を飲むといっても、その頃から流行出した、軍鶏《しゃも》とか家鴨《あひる》とかの鍋焼き店へ行く位のものであった。稀に一、二の人はそれ以上の料理屋めいた所へも行ったらしく、帰って来て酔った余り唄の一口か踊の真似をする者があったが、周囲からは眉をひそめて厭わしく見ていた。この者は世子が帰城すると直に免職となった。そんな風で、我々は暇があればまず読書をする。また少しは時世論などもする。また詩歌の出来る者は和歌を作り、詩を作る。同僚中で詩の出来る者は、前にいった菅沼と従弟の山本と、この外に中村粂之助、側役では宮内類之丞、石原量之助、また余り作りはせなかったが、叔父の下村も多少詩を知っていた。それで私は例の時世を詠じた詩や、松山出発以来の途中の詩や、なお着京以来聞き噛った時事の問題に渉る詩などを見せたり互に次韻をしあったりして、いよいよ同僚中でもこんな才のあることだけは認められた。
 この頃の京都は彼の長洲兵が、禁門に発砲した騒動で、その残党を捜索するという事から殆んど人家の大部分を焼
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