の毘沙門とか、土橋《どばし》とか、采女原などにあって、土橋では鈴之助という役者が評判であった。毘沙門の小芝居で切ラレ与三《よさ》を見たことを覚えているが、誰がやったのか役者の名は忘れた。与三郎が残酷に切られて、血だらけになったのを、とど俵に押込んで担いで行くのを見た時、いかにも怖しくまた可哀そうに思った。いつであったか土橋の芝居へも行くことになって途中まで出掛けた所、もう楽になっていると聞いて引返した事があった。その時よほど残念に思ったと見えて、いまだにそれを覚えている。小芝居の最も盛んであったのは両国であったが、これは屋敷から遠いので行かれなかった。こういう小芝居を総称して『オデデコ芝居』といった。大芝居を見たという事は大変に自慢になったけれども、オデデコ芝居を見るという事は何の面目にもならなかった。だから皆内々で行ったものである。
 私の八歳の時に、継母は男の子を生んだ。大之丞と名づけられた。そこで私は始めて弟というものを持ったのである。年は七つも違っていたが、それでも弟が少し生い立って来ると、随分喧嘩もした。大之丞が私の絵本などを汚すと、いつも私は腹を立てた。
 私はもう芝居も知り草双紙にも親しんだが、かの間室から貰った草双紙の綴じたのの中に、種彦《たねひこ》が書いた『女金平草紙《おんなきんぴらぞうし》』というのがあった。この草紙は女主人公が『金平《きんぴら》のお金《きん》』で、その夫が神野|忠知《ただとも》にしてある。この人の句で名高い『白炭や焼かぬ昔の雪の枝』というのが、或る書には『白炭は』とあって名も種知としてある。この異同から種彦が趣向を立てたものであった。その関係からこの本には他のいろいろな句ものっていた。
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茶の花はたてゝもにても手向かな
軒端もや扇たるきと御影堂
角二つあるのをいかに蝸牛
元日や何にたとへむ朝ぼらけ
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というもあった。これらを読んで面白そうなものだと思ったが、それが三十幾年の後に『俳人』などと呼ばれる因縁であったといわばいえる。
 この草双紙の筋は、忠知が或る料理屋で酒を飲んでいると、他の席にいた侍のなかまが面会したいといって来た。忠知はそれを面倒に思って、家来に自分の名を名乗《なのら》せて面会させた。すると、その家来が悪心を起して、その席の一人の侍の懐中を盗んだ。それがすぐ発覚したの
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