そのうち敦盛は馬で花道から出て来た。熊谷が扇で招きかえす。太刀打になる。それは私も古戦記や錦絵などでよく知っている事であったからよく解って、興を催して見ていると、暫くすると敦盛は甲冑を解いて、手を合せて坐った。はてなと思っていると、熊谷が後ろにまわって悲しんだ末、首を打った。盛衰記とは筋が違うので変なことだと思った。それからあの平山ノ武者所が花道のうしろから大きな声で何か怒鳴った時、私は不意を打たれて喫驚した。
三段目になって、藤ノ方が笛を吹いていると障子にぼうっと、敦盛の影がうつッたのをよく覚えている。障子をあけたのを見るとそれは甲冑の影であったのだ。熊谷が首桶を携えて出ようとするおり、奥から義経の声がして、やがて出て来る。すると藤ノ方と相模とが驚いて左右に倒れたような姿になった時、いかにも事々しい心持がした。甲冑をぬぐと熊谷が黒い衣の坊主になっていたのも変に思った。
勧進帳になったが、これも盛衰記にあるのと筋が違っているので、十分にはわからず、ただ延年の舞ぐらいが、少々目さきに残っている。安達原では、八幡太郎の殿様姿や、貞任の束帯姿が、いつもの甲冑と違っているのに不審をした。宗任の書く『我が国の梅の花とは……』は、最前《さいぜん》お馴染みでよく分かった。
その頃芝居の弁当といえば幕の内といって、押抜きの飯と煮染《にしめ》と漬物で、甚だ淡白な物であったが、私は珍しく食べた。私は芝居という所へ始めて這入ったのだから、周囲にあまり人が沢山おり、むやみに騒がしいので、怖いような気がして、舞台と共に見物席の方にも絶えず気を配って、どうも落着かなかった。
十一歳で家族一同松山へ帰ることになったが、その間に私の家族が大芝居を見たというのは、唯この各《おのお》の一回のみであった。その頃の藩士の生活は、国もとの方でも藩邸でも極めて質素なもので、そうせねば家禄では足りなかった。
かくの如く十年間に唯一回の大芝居見物でも、家族は非常に満足し、またこれだけの事が父の大奮発であったので、まことに大芝居を見るという事は容易な事ではなかった、小芝居になると、祖母などもその後時々行って、その都度私も伴われた。
その頃は大芝居と小芝居とは劃然とした区別があったもので、大芝居の役者は決して小芝居には出なかった。小芝居は江戸に沢山あった。私どもの屋敷から行ける所では、まず金杉《かなすぎ》
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