で同席のなさけある一人が、その家来を刺殺して、忠知は過ちを悔いて自殺したといい触らした。この事が後世に伝わり、忠知は切腹したという事になってしまった。忠知はこの異変を聞いて、もとは自分の一時の疎懶《そらん》ゆえと後悔したが、もはや追付かず、表向きに顔を出すことが出来ぬ身になり、その後、金平のお金という女と夫婦になり、そのお金の親の仇を討つというのが大団円になっている。
こんな複雑な筋のものも段々読み得るようになったので、いよいよ草双紙が好きになった。私が八つ九つの頃に見たのは三冊五、六冊ぐらいの読切り物で、京伝種彦あたりの作が多かった。それから或る家で釈迦八相倭文庫《しゃかはっそうやまとぶんこ》を借りて来て読んだが、これが、長い続き物を見た始まりで、こういう物は一層面白い物だと思った。この本で釈迦の事蹟の俤を知り、後日仏教を知るその糸口はこの本で得たともいえる。『白縫譚』『児雷也豪傑譚』なども追々と読んで行った。
私は九歳の時君侯へ初めて御目見《おめみ》えをした。御目見えをしないと、いかに男子があっても、主人の歿した際、家禄が減ぜられる定りであった。それで男子は八歳以上になれば、君侯の御都合を伺って、御目見えをして置くのである。私もこのお目見えの時は上下を着用して上屋敷へ行った。なんでも一日か十五日かの式日で、諸士に御面会あるそのついでにお目見えをしたのであった。そばには父が附いていてくれたが、怖いような気がした。このお目見えを済ました子を『お目見え子』といって、その翌年から君侯に対して年賀もするし、その君侯が亡くなれば葬儀を見送り、法事の際には参拝して饅頭などを戴くことになっていた。
私のお目見えをした君侯は勝善公といって、その後間もなく亡くなられたので、私も上屋敷へ行って葬儀を見送った。葬儀の場合にはたとえ君侯といえども柩は表門から出すことは出来ず通用門から出すのである。表門から死人を出すという事は、幕府から賜わった屋敷ゆえ憚るのである。士以下の葬儀は別に無常門というがあってそこから出した。この葬送の時目についたのは、君側の小姓の上席二人の者が髷を切って、髪を垂らしていたことである。これは徳川の初め頃であれば追腹《おいばら》をすべき者であるが、それは禁制になっているので髷を切って、君侯の柩の中に収めて、その意を致す事になっているのである。
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