の髪を残して置く、それから少しすると耳の上の所へも少しの髪を貯えて、これを『やっこ』と言う。また頭の頂辺《てっぺん》へ剃り残したものを『お芥子』と称える。なお少し年が行くと前へも髪を貯えて『前髪《まえがみ》』と言う。これがまず三、四歳の頃であるが、五歳になれば男子は上下着というをして、小さな大小をも帯び、従って髪の風も違って来る。頭の周囲にも髪を垂らしてそのお芥子にも髷を結うし、また前髪もちょっと結んで後へ曲げる。更に年を取れば今まで垂していた周囲の髪を、小さく結ったままの前髪と共に髷へ結い込んで初めて若衆姿となるのである。私も八、九歳の時からそうしていた。半元服と言うのは前髪のついている額を、剃刀を以って角深く剃り込んで、それと共に今まで前髪を結っていたのを解き放すのである。それを『角《すみ》を入れる』ともいった。即ち『梅野由兵衛』の長吉の言葉に、『姉さん私もこの暮に、角《すみ》を入れら大人《おとな》役』というのがそれだ。この角を入れると共に、いよいよもう大人となるので、私の藩では遅くとも十五歳位でこの半元服を行うのであるが、私の家には祖母がいつまでも私を子供のように思い、また父は多く江戸へ旅行していたからツイツイ遅れて、十六歳で初めて角を入れたのであった。
 その頃私の直《じき》の弟大之丞というは、薬丸《やくまる》という家へ養子に行っていたが、そこへ私が遊びに行った時、弟の養母が窃かに『助さんは半元服じゃが、もう元服をしても好い、何だか馬鹿げて見える。』と言ったのを、今でも記憶している。それほど私は身丈なども比較的大きかったので、半元服も大分遅れていた事が分る。
 ついでだがこの薬丸にも沢山の草双紙を持っていたから、かつて私は江戸で随分見ていた草双紙を、この家で再び読むことが出来た。またこの家は家内が草双紙好きで、常に他家からも借りて読んでいたから、当時の草双紙は大概見てしまった。
 それから少し話が後《あと》へ戻るが、私は十五歳の頃、馬術の方でも寒川《さんがわ》というへ入門した。一体、武士の家では弓馬剣槍といってこれだけには通せねばならぬのであれど、誰も必しも悉くを兼ることはせない。まず弓術はその頃歴々の子弟等が主として学ぶもので、われわれ身分の者は主として剣、槍、馬術を修めるのであった。私は身体も弱し、学問の方を好むところから、父が槍だけは強いて修行させず、
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