撃剣のみを修行させたが、馬は後日役柄に依って乗らねばならぬ事があるから、是非とも学ばねばならぬといって、遂に寒川へ入門する事になったのである。しかし、これが少し年齢としては遅れてもいたし、また私の脊丈が年の割にして伸びていたから、馬術の稽古場へ出て見ると、私よりも小さい少年が達者に馬を乗りこなしている、そこへ私は初めて乗るのであるから、何だか恥かしい。殊に最初はおとなしい馬へ乗せ、先輩の人に口を引いて歩かせてもらうのが、私よりも小さい少年が独《ひとり》で馬を走らせているに較べて甚だ見苦しく感じた。その内にまず独で乗ることも出来るようになったが、或る時葛岡という馬に乗った時に、急に※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]《だく》を以て駈出した。私は未だ鞍が固まらぬから非常に驚いて今にも落るかと思ったが、辛《やっ》と免れた。その危なそうなのを見て、周囲の人は随分笑ったようであった。そんな事が時々あるので、撃剣の拙いので気が進まぬように、馬術の方も気が進まず、遂に修行を怠る事になった。
これで武術は何らの成績もなく経過したが、それと反対に漢学の方は漸次と味も加わり、いよいよ進歩する事になった。前にもいった由井とか錦織とか籾山とかいう朋友と経書の研究を偕《とも》にする外に、度々郊外の散歩を試みた。そこで城下の周囲にある山川または神社仏閣等は普《あまね》く歩き廻って、殆んど足跡の到らぬ所なきに至った。まず山では城下の北方にある御幸寺《みきじ》山、これは天狗が居ると言って恐れた所だったが、そんな事は意に介せず、度々山頂まで登った、山頂には大きな岩があって、その上に小さい祠が祀《まつ》ってあった。この岩には貝の殻が着いていた。けだし太古の地変で海面が凸起した遺跡であろう。尤もかかる事も奇怪の一つとし、或る季節に祭典を執行する行者が登る外は、他の者は一切足踏みせぬ事になっていた。それを迷信だといって平気で登るのが当時の漢学生等の自慢とするところであった。
太山寺《たいさんじ》という山には経の森という魔所があって、人の入らぬ所であったが、われわれはその山頂へも登って見た。尤もこの森に対した時は少し恐かった。この太山寺と共に道後の温泉近くに石手寺《いしてじ》というのがある。これらは千年以上の建物があって、また四国八十八個所の中の霊場である。なお天山というがあって、五つ
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