まるもので、今から考えればよくあんな物を書いたと、当年の子供心を可笑く思うばかりである。
 けれどもそれが今もなお存していたら、今昔の感を叙する種にもなったろうが、ちょうどそれを書き終った頃に、父が江戸から帰って来て、留守中私がそんな事に耽っていたのを見ると機嫌が好くなくて、『まだ手前はそんな事をするよりも、充分経書を勉強せねばならぬのだ。』といって、一日大いに叱った。私は父のいう事といえばよく守ると共に、信ずる事も厚かったから、これは自分の過ちだと思い、沢山の草稿になっている手作の南北朝綱目を、庭の大竈の中へ投込んで一片の煙としてしまった。それからは父のいう如くもっぱら経書の研究をする事になった。
 その頃朋友の中で最も親しかった者は、由井弁三郎、錦織左馬太郎、籾山駿三郎等で、いずれも漢籍を好んだ仲間である。これらの友人どもとは明教館で語り合うのみならず、自宅でも経書の研究会を開く事なぞがあった。私の父はさほど漢学を深くも修めていなかったが祖父なるものは徂徠派の学を究め、旁ら甲州派の軍学も印可を受るまでになっていた。それらの文武の書籍も沢山に遺っていたので、私は本箱を探してそれらの物を見たが、就中、仁斎や徂徠春台の経書の解釈に属する書を読んだ。するとこれまで朱子の註釈した経書とは大いに違い、むしろ朱子の註よりも、私の心に適う点も少なくなかったので、その後由井等と共に研究する時には、これらの古学古義派の説をも持出して、彼らを煙に巻いた事もあった。
 しかし、明教館の先生の前へ出ては、そんな事は一言も吐かなかった。もし一言でも吐こうものなら、お目玉を喰うのみならず、退学を命ぜられるのである。寛政年間、桑名の楽翁が当局中に漢学は程朱の主義に従うべきものと一般に規定せられてから、私の藩などでは殊にそれを遵奉していた。明教館にもそれらの明文を掲げてあるくらいだから、もしも仁斎、徂徠の異端なる説を称うるならば、一日たりともそのままには置かれなかった。
 私は十六歳の時に半元服をした。今日こそ生れた時の産髪《うぶがみ》のままで漸次《だんだん》と年を取って、それを摘み込み、分け方を当時の風にしただけで、ハイカラがっているけれど別にその上の変化はない。しかるに昔は幼者と成年とは非常の変化で、まず生れ落ちた時の産髪は直ちに剃ってしまい、後《うしろ》の方へ『じじっ毛』と言って少しばかり
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